この空を羽ばたく鳥のように。
 



西軍中央隊はまず第一台場の萩岡を砲撃し、陣屋は炎上。

後退した第二台場にも西軍は迫り、壮絶な激戦を展開した。

ここで西軍右翼隊に背後を衝かれ、驚いた同盟軍はふたつの陣屋を放棄して第三台場に後退。

必死に防戦を繰り返すがさらに左翼からも西軍が押し寄せ、同盟軍の兵は田中・大鳥の必死の叱咤もむなしく、散りぢりになって敗走した。



大鳥率いる伝習隊も、敗退しているうちに山中で道に迷い裏磐梯の辺りをさまようことになる。



田中隊や他の隊の残兵は猪苗代城に集い西軍を迎撃しようとするが、敵の勢いは止まらず猪苗代城も落ち、

田中源之進の後任として猪苗代城代を任された高橋権太輔は、見禰山土津神社のご神体を社司に託して若松におもむかせ、城塞と土津神社に火を放ち退いた。








ここでわが藩は、重大な誤ちを犯すことになる。

国境を守備する第一線が崩れた場合、誰がどのように軍事局へ伝えるのか、それをあらかじめ決めていなかったのだ。



若松にある会津軍事局に母成峠の敗報が知らされたのは、翌二十二日子の刻(午前0時頃)になったあたりだった。



母成峠で戦闘があったのは、前日二十一日の早朝。

つまり会津軍事局は、迫りくる敵の襲来に何の手立ても講じられず、半日以上もの無駄な時間を過ごしていたことになる。








――――それは、新たな悲劇の幕開けでもあった。



このあとの会津軍事局の対応は、猛進する西軍にあわてふためくようにすべて後手にまわることとなる。








非常呼集として城下に家並み触れが出されたのは、母成峠の敗報が入ってから一時(2時間)も過ぎたころだった。





『十五歳から六十歳までの男子(藩士子弟)は、戦支度を整わせ急ぎ登城するべし』。


『藩士の家族は敵の襲来を告げる半鐘が城下に鳴り響いたら、即刻入城するか、郊外へ立ち退くべし』。





そして、喜代美が属する白虎士中二番隊にもまた、別途で回章文(まわしぶみ)が出されていた――――。










※後手(ごて)……相手に先を越されて受け身になること。



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