月は紅、空は紫
「え……異狸薬?」

 聞き慣れぬ名前である、というよりは清空の人生で一度も耳にしたことの無い名前だ。
 疑問を呈するというよりも、初めて耳にする単語をそのまま復唱してしまう幼児のような行動なのかもしれない。
 清空の反応から、イシヅキが説明を加えるように話し続ける。

「はい、我々鎌鼬に伝わる秘薬でございます。傷をたちどころに治し、飲めば疲れを癒し、万病を追い出す――歳平様より、その匂いがしておりました。私はその匂いのみを追い掛けてここまでやって来たのです」

 そう言われても、清空にはまるで覚えの無い話である。
 そのような魔法の薬みたいなものを持っているならば、清空の手の傷はとっくに治っているだろうし、今頃清空は京で一番の医者とでも評判になっていることだろう。
 だが、イシヅキが嘘を吐いている様子にも見えない。
 そもそも、この話が嘘であるというならばイシヅキに得となる部分が無い。
 鎌鼬の秘薬の存在を清空に明かし、その名前を教えなければならない理由も無い。
 何より、イシヅキの話し方は嘘を吐いているにしては――淀みがまるで無い。

「あの夜に――メジロと戦ったことで匂いでも移ったのかな……?」

 そう考えるのが、清空にとっては一番妥当なところである。
 『鎌鼬の秘薬』というくらいだから、メジロがその香りを纏っていても何ら不思議ではない。
 その清空にも移った匂いを辿って――イシヅキは清空の家にたどり着いた。
 イシヅキの話を総合すれば、そのように考えるのが一番自然なように清空には思えた。

「そうかもしれません。ただ、あの夜にメジロと戦っている歳平様を見て、『メジロと戦えるのはこの方しかいない』、と……勝手に思い込んでしまいました」

 そう話すイシヅキの視線が、鋭く、しかし懇願するような熱を帯びている。
 願っていないところから――話は元の場所に戻りつつあった。
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