三十路令嬢は年下係長に惑う
「おはようございまーす」

 これから更衣室に行くのか、私服の女子社員がいきなり声をかけてきた。
 昨日受付にいた、あれは……。

「おはよう坪井さん、今日はめずらしく早いね」

 上田の『めずらしく』という単語には微妙なニュアンスで毒素のようなものが含まれているような気がしたが、言われた方の坪井はそれに気づいているのかいないのか、不快を表に出して返すような事はしなかった。

 坪井の関心はどちらかというと上田よりも水都子の方へ向いていた。

「おはようございます、私も水都子さんとお呼びしていいですか?」

 不躾ではあったが、そういえば昨日、白井と共に各部署へ挨拶へ行った時に受付には立ち寄らなかった事を思い出した。

「はい、遊佐水都子です、よろしくお願いします」

 改めて自己紹介をすると、坪井は少しいじわるそうな顔で笑った。

「やだ、知ってますよ、会長令嬢で社長副社長のお姉さんじゃないですか、社内で水都子さんを知らない人なんていませんから、もっとドンと構えていていいんですよ」

 嫌味なのか追従なのかギリギリの言葉にどう返していいかわからず、水都子はあいまいに微笑んだ。

「あ、私は総務の坪井未優子です、よろしくお願いします」

 思い出したように名乗り、あ、着替えるんで失礼します、と、行って坪井は立ち去っていった。素で人を不愉快にさせるような所のあるこの女が会社の顔の受付に座っているという事に、水都子はあやうさを感じたが、それをやすやすと口にすべきでは無い、とも思った。

 自分が何か発信する事で、自分のあずかり知らない所で変化が起きる事が怖かった。

 これまでしてこなかった緊張感を水都子は感じて自然と背筋が伸びた。

「ツボイ様は少しご立腹のようですね」

 上田が坪井が立ち去るのを確かめてから言った。彼女もまた、人事という立場上、人の評価めいたものを気軽に口にしていい立場の人間では無いのだが、周囲に人が少ない気安さもあったのだろう。

「ツボイ様って?」

 水都子が尋ねると、上田が答えた。

「彼女、女性社員の中では古株なんで、ボス猿っぽいところがあったんですよ……社長が就任するまでは」

「社長は、ああしたはっきりモノを言いそうなタイプとは相性よさそうですけどね」

 真昼の交友関係お思い返しながら水都子は答えた。

「社長がお好きなのは『誰に対しても』はっきり言うタイプじゃないですか? ツボイ様は相手を選んで喧嘩をするタイプですからね」

 上田の率直な坪井への評価でどことなく水都子は合点がいった。であれば話は変わる。強者にへつらい弱者を虐げるのは、妹の最も嫌うタイプの人間だ。ましてや年齢が近いとなると、その嫌悪感たるや、というところだろう。

「でも、今はどちらも我慢してるように見えますけどね、どこかでガス抜きをして欲しいんですが、タイミングがなかなか」

 そんな風に言う上田も、なかなかに食えないタイプに見えた。愚痴を言うように進言してくるあたり、ちゃっかりしているとも思える。

 しかし、今の水都子は一介の社員に過ぎない。真昼に、妹への注進であれば、直接自分の口からにして欲しい、と、思っている事に気づいたのか、上田は苦笑して言った。

「ま、これは愚痴です、すみません、まだ日も浅いのに」

「いえ」

 水都子も苦笑しつつ、雑談の中でこっそり根回しをする上田の狡猾さも年齢にそぐわない老獪なところがあると思い始めていた。

 そう思うと、自分のこの適度になめられている感じも相手の懐に入り込んで話を聞くには悪くないのかもしれないと、水都子は思い始めている。

 真昼の狙いはそこなのか、まさか姉を間者のように使役したいというわけでもなかろうに。

 ひとまず、仕事に没頭できれば考えたくない嫌な事も考えずにすむ、そう思いながら、水都子は自分の席についた。
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