ひと雫おちたなら
「いいよ、別に」
今月のオススメ、ホッケの塩焼きをブラックボードに描きながら、睦くんがうなずいた。
驚いたことに、ひとつ返事で。
「え?いいの?彼氏のふりだよ?面倒くさくない?」
「頼んでおいてなんなの?じゃあやらない」
「あ、待って待って、睦くんっていつもなに聴いてるの?ピアノの曲?」
「出た……人の話聞かない…」
床に座っている睦くんの首にかかっているイヤホンから、音漏れしてピアノの音色が聴こえてきたのでつい気になった。
片耳で聴いている彼のイヤホンの使っていない方をとると、右耳につける。
ゆったりとしたテンポの、どこかで聴いた覚えのあるピアノの曲が流れていた。
「これ、なんて曲?」
「エリック・サティのジムノペディ」
……曲名を聞いても知らない。
「声とか入ってないの?」
「入ってるわけないよ、クラシックだもん」
「クラシック!?」
びっくりして仰け反ると、そこまで驚くことなくない?と不満げな顔で私をじろりと横目で睨んできた。
「クラシックなんて聴くの?」
「俺も詳しくはないよ。絵を描く時はこれを聴いてるだけ」
「一曲だけ?エンドレスリピート?」
「そう。集中できるっていうか、無になれるんだよね。だから気に入ってる」
「へぇぇ」
音楽に関しては無知なので、薄っぺらい返事しかできない。
基本的に流行りの邦楽は聴くものの、洋楽もよほど有名なものしか分からない。クラシックなんてもってのほかだった。
クラシックを聴きながらホッケの塩焼きの絵を描くって。
なんか、いかにも“芸術系男子”って感じがした。