大江戸シンデレラ

「そうだな、まず手始めに……あっ、すっかり失念しておった」

急に何事か、と美鶴は身構える。


「美鶴、そなたの真名(まな)を聞き及んでいたにもかかわらず、(それがし)(いみな)をまだ告げてござらんだな」

「いえ、旦那さま……
武家に嫁いだ今となっては、それがどれだけ恥知らずなことか、重々承知してござりまする。
所詮、吉原の小娘の戯言(ざれごと)であったと、どうか水に流してくだされ」

美鶴の頬がまた、さーっと青ざめていく。

知らなかったとは云え、なんという無礼千万な物云いであったかと、後悔しきりである。


にもかかわらず……

「しからば、名乗りを挙げるぞ」

兵馬は声を張り上げた。一世一代の「名乗り挙げ」である。

「お、お()しくだされっ」

美鶴は両耳を、その手でしかと塞いだ。

(それがし)の諱は『直義(ただよし)』と申す。
官名はまだあらぬゆえ、松波 兵馬 直義が本来の名でござる」

「わ、わたくしは……なにも聞いておりませぬゆえ……」


「戯言と云うならば、我が父の方がよっぽど(ひど)うござる。
(それがし)はそなたと()うているのに、他のおなごと会うていると、そなたに告げたのだからな」

すると、なにかを(ひら)いたのか、兵馬はニヤリ、と笑った。
父親譲りの「浮世絵与力」の笑い方だ。


「我が父の諱は『直勝(ただかつ)』でござる」

「な、なにをいきなり……」

美鶴は仰天した。

夫の諱を知るだけでも畏れ多きことであるのに、まさか舅の諱まで明かされるとは——

「そうだな、物のついででござる。
我が亡き祖父の諱は『直興(ただおき)』だ。
祖父の諱は、我が母ですら知らぬぞ」

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