小さな傷
銀次さんと会う約束の日、いつもなら待ち遠しい会うまでの時間が、今日は憂鬱な時間となった。
「お待たせ、悦子さん。」
「……。」
「ん?どうしました?深刻な顔をして。」
銀次さんは、私の様子を察して、すぐに近くの喫茶店に入ってくれた。
「何か悩んでるなら、話していただけませんか?」
私は、自分の気持ちをどう伝えたらいいか、最初に発する言葉を選んでいた。
銀次さんは私のそんな思いをわかってくれたようで、黙って私からの言葉を待ってくれた。
「銀次さんと…。」
「……。」
「銀次さんと、結婚したいです。」
「……。」
「でも、父が許してくれません。」
「お父様に話をしたのですか?」
「はい、好きな人がいると言って銀次さんのことを話しました。」
「お父様はどう反対されているのですか。」
「銀次さんがダメなわけじゃないんです。」
「え?」
「例えどんな男性であっても、私が選んだ人はすべてダメなんです。」
「それは随分と横暴ですね。」
「父は私をとても愛してくれています。悪く言えば溺愛しています。私の我儘もほとんど聞いてくれます。」
「……。」
「唯一私が子供の頃から私の結婚相手だけは自分が選ぶとずっと言っていて、それを実行しようとしています。それだけは絶対に譲らないと。」
「明治の人ですね。でも、今は昭和、そしてもう戦前でもない。自由恋愛の時代です。」
「私もそう思って父を説得しました。でも、全く聞く耳を持ちません。これだけは譲れないの一点張りでした。」
「会いに行きますよ。」
「えっ?」
「お父様に。次のお休みはいつですか?」
私は猛反対して銀次さんを止めたが、こちらも聞く耳を持たず、兎に角行くの一点張りだった。
内心ここまで私を思ってくれていることを嬉しく感じたが、やはり父には会わせたくなかった。
日曜日、あいにく父は家にいた。
銀次さんは昼過ぎには行くと言っていたので、それまでに何とか父を外出させたかった。
「お父様、いい天気ですわ。絶好のお散歩日和だわ。」
「ん?出かけるのか?まさか例の男と会うのか?」
「そんなわけないです。私は今日は家にいます。」
「ん、そうか。」
そう言うと父はまた新聞を読みだした。
「あ、そういえば、お父様のお好きな作家の敷島卓二先生の新刊、今日発売日じゃありません?」
「えっ?ああ、そうか確かに今日だ。おい!長谷川!」
父は書生を呼び出し、本を買わせに行かせた。
何か父を外に連れ出す手はないか考えあぐねていると
「あなた、折角のお休みでこんなに良いお天気なんだから、私を銀座に連れて行ってくださいませんか。」
母が父に向かって言い出した。
「ん、銀座か…。」
そう言うと父は窓の外に目を向け、真っ青な空を見て目を細めた。
「わかった、支度をしなさい。」
父は立ち上がり自分も身支度のために自室に向かった。
母は私に顔を向け小さく頷いた。
『ありがとう、お母様』
と、心の中で呟きながら母を見送った。
約束どおり昼過ぎに銀次さんが来た。
「失礼します。」
ちょっと緊張しているのか、いつもの太陽族の格好とは違い、細身だがスーツを着てネクタイまで締めていた。
少し笑い出しそうになったが、グッと堪え、銀次さんを応接間まで通した。
ソファを勧めると、居心地が悪そうに周りを見回しながら腰掛けた。
ガチャリとドアが開くと銀次さんは手土産を持ってスクッと立ち上がった。
驚いたのはお茶を持ってきた婆やのほうだった。
「こちらお手伝いをしてくださっている白井さんよ。」
バツが悪そうに頭を掻きながら、
「平方銀次です。どうぞお見知り置きを。」
そう言ってソファに座り直した。
「うふふ…」
婆やが出た後、もう我慢出来なくてついに笑ってしまった。
怪訝な顔で私を見る銀次さんに
「ごめんなさい。父は留守なの」
「えー!」
そう言うと身体の力が抜けたようで、ソファからずり落ちそうになった。
「悦子さん、案外人が悪いですね。」
銀次さんはネクタイを緩めながら、少しホッとした表情で言った。
「本当にごめんなさい。あまりに緊張されていたので、それを言うタイミングを逸してしまいました。」
出された紅茶を一気に飲み干した銀次さんは
「でも、正直ホッとしました。」
素直な少年のような表情に少しだけドキッとした。
それからしばらく昨晩眠らずに考えた『お父様攻略作戦』の話で一頻り盛り上がった後、
「少しだけ残念だけど、今日は失礼するよ」
と言って私の家を後にした。
いつもスマートな銀次さんの可愛いところを見つけた気がして銀次さんには悪いけど、私的には収穫大だった。
「ん?お客さんか?」
帰宅して着替えをして居間に戻った父が言った。
不意をつかれた私がドギマギしていると、
「いいえ、ただのお届けものです。私の親しい方から、最近流行っているらしいと菓子をくださいました。」
婆やが澄ました顔でそう言い放つと
「そうか、じゃあ折角だから皆でいただこう。お茶を入れてくれ。」
そう言いながらさっきまで銀次さんが座っていたソファに腰掛けた。
婆やは私にウインクをするとお茶の支度をしに台所に向かった。
母も婆やも言葉には出さないが、それとなく私の恋を察して応援してくれている。
母も婆やも「明治の女」だが、昭和という新しい時代に自律して生きようとする新しい女性像を私の中に見ているのかもしれない。
その気持ちに応えたいと改めて銀次さんとの恋を成就させる決意を固めた。
「お待たせ、悦子さん。」
「……。」
「ん?どうしました?深刻な顔をして。」
銀次さんは、私の様子を察して、すぐに近くの喫茶店に入ってくれた。
「何か悩んでるなら、話していただけませんか?」
私は、自分の気持ちをどう伝えたらいいか、最初に発する言葉を選んでいた。
銀次さんは私のそんな思いをわかってくれたようで、黙って私からの言葉を待ってくれた。
「銀次さんと…。」
「……。」
「銀次さんと、結婚したいです。」
「……。」
「でも、父が許してくれません。」
「お父様に話をしたのですか?」
「はい、好きな人がいると言って銀次さんのことを話しました。」
「お父様はどう反対されているのですか。」
「銀次さんがダメなわけじゃないんです。」
「え?」
「例えどんな男性であっても、私が選んだ人はすべてダメなんです。」
「それは随分と横暴ですね。」
「父は私をとても愛してくれています。悪く言えば溺愛しています。私の我儘もほとんど聞いてくれます。」
「……。」
「唯一私が子供の頃から私の結婚相手だけは自分が選ぶとずっと言っていて、それを実行しようとしています。それだけは絶対に譲らないと。」
「明治の人ですね。でも、今は昭和、そしてもう戦前でもない。自由恋愛の時代です。」
「私もそう思って父を説得しました。でも、全く聞く耳を持ちません。これだけは譲れないの一点張りでした。」
「会いに行きますよ。」
「えっ?」
「お父様に。次のお休みはいつですか?」
私は猛反対して銀次さんを止めたが、こちらも聞く耳を持たず、兎に角行くの一点張りだった。
内心ここまで私を思ってくれていることを嬉しく感じたが、やはり父には会わせたくなかった。
日曜日、あいにく父は家にいた。
銀次さんは昼過ぎには行くと言っていたので、それまでに何とか父を外出させたかった。
「お父様、いい天気ですわ。絶好のお散歩日和だわ。」
「ん?出かけるのか?まさか例の男と会うのか?」
「そんなわけないです。私は今日は家にいます。」
「ん、そうか。」
そう言うと父はまた新聞を読みだした。
「あ、そういえば、お父様のお好きな作家の敷島卓二先生の新刊、今日発売日じゃありません?」
「えっ?ああ、そうか確かに今日だ。おい!長谷川!」
父は書生を呼び出し、本を買わせに行かせた。
何か父を外に連れ出す手はないか考えあぐねていると
「あなた、折角のお休みでこんなに良いお天気なんだから、私を銀座に連れて行ってくださいませんか。」
母が父に向かって言い出した。
「ん、銀座か…。」
そう言うと父は窓の外に目を向け、真っ青な空を見て目を細めた。
「わかった、支度をしなさい。」
父は立ち上がり自分も身支度のために自室に向かった。
母は私に顔を向け小さく頷いた。
『ありがとう、お母様』
と、心の中で呟きながら母を見送った。
約束どおり昼過ぎに銀次さんが来た。
「失礼します。」
ちょっと緊張しているのか、いつもの太陽族の格好とは違い、細身だがスーツを着てネクタイまで締めていた。
少し笑い出しそうになったが、グッと堪え、銀次さんを応接間まで通した。
ソファを勧めると、居心地が悪そうに周りを見回しながら腰掛けた。
ガチャリとドアが開くと銀次さんは手土産を持ってスクッと立ち上がった。
驚いたのはお茶を持ってきた婆やのほうだった。
「こちらお手伝いをしてくださっている白井さんよ。」
バツが悪そうに頭を掻きながら、
「平方銀次です。どうぞお見知り置きを。」
そう言ってソファに座り直した。
「うふふ…」
婆やが出た後、もう我慢出来なくてついに笑ってしまった。
怪訝な顔で私を見る銀次さんに
「ごめんなさい。父は留守なの」
「えー!」
そう言うと身体の力が抜けたようで、ソファからずり落ちそうになった。
「悦子さん、案外人が悪いですね。」
銀次さんはネクタイを緩めながら、少しホッとした表情で言った。
「本当にごめんなさい。あまりに緊張されていたので、それを言うタイミングを逸してしまいました。」
出された紅茶を一気に飲み干した銀次さんは
「でも、正直ホッとしました。」
素直な少年のような表情に少しだけドキッとした。
それからしばらく昨晩眠らずに考えた『お父様攻略作戦』の話で一頻り盛り上がった後、
「少しだけ残念だけど、今日は失礼するよ」
と言って私の家を後にした。
いつもスマートな銀次さんの可愛いところを見つけた気がして銀次さんには悪いけど、私的には収穫大だった。
「ん?お客さんか?」
帰宅して着替えをして居間に戻った父が言った。
不意をつかれた私がドギマギしていると、
「いいえ、ただのお届けものです。私の親しい方から、最近流行っているらしいと菓子をくださいました。」
婆やが澄ました顔でそう言い放つと
「そうか、じゃあ折角だから皆でいただこう。お茶を入れてくれ。」
そう言いながらさっきまで銀次さんが座っていたソファに腰掛けた。
婆やは私にウインクをするとお茶の支度をしに台所に向かった。
母も婆やも言葉には出さないが、それとなく私の恋を察して応援してくれている。
母も婆やも「明治の女」だが、昭和という新しい時代に自律して生きようとする新しい女性像を私の中に見ているのかもしれない。
その気持ちに応えたいと改めて銀次さんとの恋を成就させる決意を固めた。