Q. ―純真な刃―


警察に護られながら念願の帰還を果たした新道寺を、全国各地の報道陣がそれぞれの見出しで祝砲を放った。



「飛行機墜落の唯一の生還者!」
「奴隷にされても屈しなかった、勇ましい少年!」
「2年を経て感動の再会……!」


「――まさに、奇跡の申し子!」



過酷な生き地獄が、ご都合主義な一言に集約された。ゴメスにされたハラスメントの全貌が、祖父母の意向で秘匿されたのが起因している。

公共電波に乗せられる実態ではなかった。


新道寺の体は痣と傷跡だらけで、手に爪はなく、内臓は縫合が必要なほど変形していた。

言葉数も笑顔も少ない。夜になるとうなされ、寝言は聞くのも耐えられない痛ましさ。

奇跡の片鱗もない。


あるとすれば、地獄の淵で保護者と巡り会えたことだけだ。

自分で成し遂げたことはただの一度もなかった。だから傷が治らなかった。生き延びるのでやっと。何もできなかった。


本人以上に祖父母が泣いて、怒って、悔やんでいた。孫が生きていてくれた喜びすら、疑いにかかってしまうほどだった。

ごめんねと新道寺が言うと、さらにひどい表情になった。新道寺自身もどうすればいいのかわからない。



部屋に檻はない。手首に錠もない。

ここは自分が生まれ育った実家だ。両親がいなくて寂しいけれど、祖父母がそばにいてくれる。

この世で一番安心できる天国のような場所……のはずなのに、救われた実感がまったく湧かなかった。


だって、まだ、心臓は動いている。



――生きてみろよ、クソガキ。



動き続ける限り、支配は終わらない。

どこかにいるであろうボスが、ニュースを見て親族もまとめて葬り去りに来る悪夢が、いつまでも新道寺を襲った。



無論、取材は受けられなかった。

対応はすべて祖父母が引き受け、世話になった警察のみ接触を許した。


面談と称した事情聴取のため、警察は頻繁に家に訪れた。祖父母の立ち会いの下、代表して千間刑事が客間で新道寺と顔を合わせた。話は千間の一方通行で、愛想もなく、毎回10分程度で切り上げられた。

新道寺の警戒心は、ボスやゴメスを経て限界化していた。


1ヶ月もすると良くも悪くもその状態に慣れ始める。気づけば家に来る警察の人数は千間ひとりとなり、祖父母を信頼して廊下に待機するようになっていた。

一体一の場に始終沈黙が落ちるのもめずらしくなかった。

新道寺はふつうに振舞っているつもりでも、いつも体は震えていた。それが当たり前になっていて感覚が麻痺していた。真っ当な話し方も、素直な笑い方も、醜く汚されてしまい思い出せない。

千間は特に指摘せず、煽る様子もなく、静かに沈黙を受け止めた。

庭の雪が溶けていくにつれ、ふたりの視線が交わる回数が増えていった。




「君に、話そうか迷っていたことがあるんだ」




木々に芽が出始めたころ、はじめて千間が業務的な質疑以外で口を開いた。

ソファーの上で三角座りする新道寺は、膝の上から目を覗かせる。




「少し前に、娘ができてね」




夜が更けるように新道寺の目が沈んだ。




「その子が君のことをニュースで知って、もし会うことがあったら伝えてくれと言伝を預かっていたんだ。君の重荷になってしまうかと思って伝えずにいたが……今、言うよ」




穏やかな春風が、窓を叩く。




「おかえり」




四つの音がゆっくりと紡がれた。それは当然日本語で、威圧感はなく、言伝以上の私情は挟まれていない。

新道寺は聞き返したそうに首を起こした。向かいの千間は、いつもの硬い仏頂面をふっとやわらかくほころばせる。目の下に傷痕のようなしわができていた。

新道寺は不安げに左右を見渡す。広いソファーに自分以外いないことを確認してやっと、本当の意味で自分への言葉だと理解した。

新道寺緋、たったひとりに宛てられた言葉だと。




「……ぼく、だけが……かえってきちゃった……」




赤らんだ小さな膝に、涙の粒がたまっていった。




「マルたちも、いっしょがよかったのに……っ」




どうしよう、どうしよう、とつぶやきながら、包帯に護られた手で短い髪を乱してつかむ。嗚咽を吸い込む喉が、ひっ、ひっ、と苦しそうに引きつる。

娘ができて間もない千間は、泣いている子どもに慣れておらず、うろたえる。




「す、すまない。だ、大丈夫……大丈夫だから、どうか、泣かないでくれ」




立ち上がって近づこうとするが、距離を詰めるのは逆効果だろうと座り直し、姿勢を前傾させる程度に留めた。




「君と一緒に監禁されていた子どもたちは、一年ほど前に救出した」

「……え? ……ほんとうに?」

「ああ、みんな無事だ。国の保護の下、それぞれ生活している」




この件については、一番最初の面談で説明済みなのだが。そのときの新道寺は外部の情報を遮断し、心の扉を完全に封鎖していた。

説明していても無反応だったことから千間は大方の察しがついていた。だからか、二度目の説明になろうとも、まるで今はじめて教えたように振る舞えた。

それでも新道寺の涙腺は締まらない。




「……マルも?」

「マル?」

「マルはもうきずついたり、おこられたりしてない? マルはなにもわるくないのに、ボスのせいですごいくるしんでたんだ。いまもどこかでぼくみたいにおびえていたら……いやだよ……」




自分のことでいっぱいいっぱいのはずなのに、マルへの思いがあふれて止まらなかった。

天使のように美しかったマル。しかし、新道寺が最後に見たマルは、血の海に溺れていた。純白の羽をもがれ、飛んで逃げていくこともできず。




「あのとき、ぼくは……なにもできなかったから」




その後悔が、何よりも深い傷だった。




「大丈夫」




先程よりもクリアな語気で千間は伝える。




「君と地下牢にいた子たちも、その前に追い出されてしまった子たちも、全員見つかっている」




ただし、追い出された子たちに関しては、残念ながら新道寺以外に生存者はいなかった。そのことを言うのは今ではないと、千間はあえて詳細を伏せた。




「あいたい……ぼく、マルやみんなにあいたい……!」




案の定、新道寺の表情に光が差す。




「……それはできない」

「えっ……なんで……?」

「……他の子たちは、そう思っていないからだ」




光に影を落とすのは、本来、心苦しいものだ。千間は言いづらそうに、それでいて子ども相手でもはぐらかさず、真摯に言葉を並べる。




「子どもたちは……過去を、忘れたがっている。おそらく本当に忘れることはできないだろうが……それでも、彼らは無理やりにでも進もうとしている。……前を向くのに必死なんだ」

「……そっか……そう、ですよね……」




そうでもしないと生きていけない。

地獄の中では仲間意識があったが、現実に戻ればトラウマの一部に過ぎない。会ってもつらくなるだけ。会わないほうが幸せでいられる。

新道寺も頭ではわかっているけれど。




「わすれるとか、まえをむくとか、どうやるの……? できないよ……。ボスたちがちかくにいるかもしれないのに……」




家にいても心は休まらない。外ならなおさらだ。

窓ガラスを割って入ってきたら? 道で誘拐されたら? 路地に連れこまれて乱暴なことをされたら? 今もどこかで復讐計画が企てていたら?

義務教育前に叩きこまれた「もしも」が、現実味を持って脳裏を駆け巡る。

身体の中枢に植えつけられた支配は、目には見えない鎖で新道寺の意志を封じ込めていた。




「君たちを攫った犯行グループのほとんどは逮捕している。……が、君たちがボスと呼ぶ主犯格を始め、数人はまだ……」

「……」

「我々の力不足ですまない」

「……っ」




バカ正直に頭を下げた千間に、新道寺は不意を突かれた。今全精力で捜査している、という力強い表明に、胸を打たれる。




「私は約束する。必ず君たちを守ると」

「やくそく……?」

「ああ、だからどうか、少しだけでも、我々警察のことを信頼してもらえないだろうか」



(このひとなら、もしかして……――ううん、だめだ。やっぱりだめだ)




ゴメスのときもそう思ってだめだった。
もう他人に振り回されたくない。


温室育ちの新道寺は、他人に期待してばかりの人生だった。

両親に甘え、マルに助けを乞い、ゴメスにはすがって裏切られた。今も祖父母や千間に頼ろうとしている。自分では何もせずに。




(そうだ……ぼくは……「できない」んじゃない、「しない」だけだ)




新道寺の周りには常に人がいた。他人ではない、絶対的な味方が。

無償の愛をくれた。悪者から守ってくれた。新道寺はそこにいるだけでよかった。


今はちがう。

この世は残酷で、理不尽だ。信頼は一瞬で裏返り、心はあっけなく壊される。

助けを待っているだけでは、地獄の炎があっという間に覆い広がってしまう。




(そんなの、もういやだ……!)




自分から動かなければ。
孤独でも戦わなければ。

眠れない夜が来ないように。
みんながうしろを振り向いてしまわないように。


方法はよく知っている。

生まれてから7年愛してくれた両親。地下牢で庇い続けてくれたマル。

そばにいてくれた味方が、身を挺して教えてくれた。




(だから、きっと、ぼくにもできる)


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