Q. ―純真な刃―
成瀬は壁一面を見渡した。
膨大な情報量。想像を絶する時間を費やし、調べ上げたのだろう。
なぜか、どうしようもなく、泣きたくなった。
「……俺のことまで……なんで、そんな……」
「ここには立ち入らないよう忠告しなかった?」
突然、横からぴしゃりと声がかかり、成瀬は声にならない悲鳴を上げた。
振り向けば、いつの間にかバスルームから出ていた姫華がいる。シルク素材のバスローブをまとい、濡れた金髪をタオルで巻いていた。
見てはいけないものを見てしまった気がして、成瀬はまたスクラップだらけの壁へ顔ごと移した。
「なぜいるの」
「ち、血が……お、落ちてたから……」
どぎまぎしながら答える成瀬に対し、姫華は至って冷静に相槌を打った。
ぽたり。水滴が滴る。
大丈夫、赤くない。床の色を反射させた、透明だ。
「心配いらないわ。返り血よ」
ヴァンパイアのように贄の生き血を吸って帰ってきた。
現に、シルクに包まれた洗い立ての体に、傷も汚れもない。ほどよく火照った肌は、一見なめらかで、白く透けている。
デスクに近づいた姫華は、赤いペンを取った。壁に貼られた顔写真に、またひとつ、バツがつけられる。
『このミッション、実は最初、女王様だけで為されていたんですよ』
いつかの汰壱の言葉を、成瀬は思い出す。
「まさかそいつをひとりで……?」
返事はなかった。
姫華は黙ったまま成瀬に詰め寄っていく。
反射的に成瀬の足は下がっていった。あっという間に扉まで追い詰められてしまう。
「さ、今すぐ立ち去りなさい」
お風呂上がりでヒールのないルームシューズを履いている姫華の背丈は、成瀬よりも5センチ以上足りない。
にもかかわらず、はるか上から見下ろしているような迫力があった。
姫華の手が黄金のドアノブをつかむ。
「ま、ま、待って。ひ、ひとつだけ、教えてくれ」
成瀬は苦しまぎれのひと声を発した。
薄い雲のかかる月を彷彿とさせる瞳に、成瀬の輪郭が鮮明に映し出される。
喉奥に引っかかる言葉を、無理に絞りだした。
「ずっと……ずっと、そうやって生きてきたのか」
その月が、ゆるやかに欠けていく。
「愚問ね」
バタン。
あっけなく成瀬は部屋から締め出された。
闇に覆われたその扉は、細かな彫刻も相まって、監獄の鉄格子のようだった。
ふたたび訪れた静寂に、頭が痛みだす。
成瀬はしばらくその場でうつむき、血の跡を睨みつけた。