Q. ―純真な刃―


赤く点灯した信号が、カラスの鳴き声とともに青く瞬いた。満を持して汰壱は歩き出す。

そのときだった。




『後悔しても知らないわよ』




自分しかいないはず場所で、人の……しとやかな少女の声が聞こえた。

ここで声をかけられる場合に想定していた声質とかなりかけ離れ、パニックになる。自慢の頭脳が著しく低下。しまいには、トイレの花子さん的なアレかと結論付けた。

らしくもない非科学的な見解。普段なら論理的な分析を重ねて否定するところだが、今は頭が働かない以上感覚を頼りにするしかなく、その最後の砦である感覚をもってしても人の気配は確認できなかった。となれば、もう、ソレしかあるまい。


汰壱の好奇心はすっかり岩のように固くなり、恐怖心と拮抗していた。

横断歩道一歩目で足を止め、握りこぶしをきつく締め上げる。




『観光客か何か知らないけれど、あちらにはのんきに遊べる場所はないわ。早くおうちに帰りなさい』




その声は、真後ろからした。悪寒のする背筋を庇うように振り返れば、またしても想定外の人影があった。

そう、影がある。編み上げブーツを履いた足も、ちゃんとある。幽霊の類ではないのは明白だった。


それでもなお、人間である確証は持てなかった。


とりあえず、顔がいい。

少女の形をした外見はとんでもない美貌に包まれ、その上に密度高く毛羽立つ純黒なニットとレザーのスキニーを風よけに被せていた。顔がいいからシンプルな服装がよく映える。最低限に露出された素肌は、なごり雪のように儚く、艶があった。顔もいい。

あと顔がよくて、とにかく顔がいい。

どれほど推敲した形容を並べ立てても、この美しさの前では霞んでしまう。つまり、顔がいい。


なのに、生きている感じが、まったくしなかった。

奇妙な、矛盾。




(そういえば、カラスがいなくなってる……。もしかして、カラスがメタモルフォーゼ……No way. いくらなんでもそんなこと……)




服の黒さと肌の白さのコントラストが、奇想天外な予想をあたかも真実に錯覚させる。

いや、カラスがこんなに美しいわけがない。あるとすれば白鳥……いいや、希少価値でいえば、ペガサスくらいでなければ。


やはり少女は人間である。
と、明後日の方向から現実を見ると、するすると解像度が上がっていった。


ただの少女がこんなところで独りでいて、高飛車に釘を刺したりするものか。

芸能界で覇権が取れそうな魅力を、帳消しにできる存在感のマジックにもきっと秘密がある。


もしかして。

――あの館は、神雷のもの。立ち入ったら最後……女王の贄となるだろう。

もしかするのか?


こぶしが開けていく。
好奇心が解凍され、ぱあっと膨らんでいく。

いざ単刀直入に尋ねようとすると、遠くから響くエンジン音に出鼻をくじかれた。

何台ものバイクが信号無視して迫り来る。閑散とした境界線が、みるみる黒煙に荒んでいく。



『おい、いたぞ!』
『あんの女狐……俺らをサツに売りやがって!ただじゃおかねえ!』
『で、でもこっちって神雷の……』
『かまうな! 全員で突っ込め!』



目が痛くなる原色カラーの短髪を夕空に吹かせ、顔中にピアスを引っかけた、絵に描いたような不良たちは、何やら少女と因縁があるようで、アクセル全開で少女に照準を合わせた。その軌道上には、横断歩道に身をはみ出した汰壱もいた。

このままでは巻き添えになってしまう。しかし車道も歩道も危険度はほぼ同等、安全圏が見当たらない。

きょろきょろとしている間にバイクが近づいてくる。常識と理性をかなぐり捨てたスピードに圧倒され、走馬灯ならぬ風都監督作品集を脳裏に上映する。


そんな汰壱の横を、金糸の紡ぐ旗がなびいた。

それが少女のブロンドヘアだと、すぐには気づかなかった。


Lサイズのキャリーケースを踏み台に、神々しい軍旗はかざされた。

夕日をかっさらうように宙を舞い、ぴんと張った足さばきでバイク集団の特攻隊を一蹴する。横断歩道の真ん中に着地すると、ヘルメットもしていない違反運転手をことごとくいなしていく。



無駄のない鮮やかな手法は、叔父()とどこか通ずるものがあった。

それでいて、棘のある美しさは、少女特有のものだ。



凛々しい戦士の背中。
剣のように鋭利な眼差し。

伸されたバイクに、ふわりふわり、黒い羽根が降る。


さっきまで存在感がなかったのが嘘のように、尋常ではない異彩のオーラが一帯を染めていた。

少女は人間であって、人間ではない。自分と同じ土俵で測っていい御方ではないのだ。


ふと、記憶の琴線に触れた。争いごとに無縁な生活をしてきたのに、なぜだか一連の光景に憶えがある……気がした。

大通りに雪崩込むバイクの大群。その渦中にいながら静粛に鎮める少女。冷ややかでおぞましく、軽妙でドラマティック。まるで……。




(雪山に消えかかる命の灯火を人知れず守ろうとする――そう! セーイチロー殿の最高傑作、映画【雪の精】でサクラコが演じた、雪女のよう!)




本当にいるんだ、このような御方が。伝説上の生物だとばかり思っていた。


脳が痺れた。
心を奪われた。

全身で少女を求めた。


ひとつの芸術として愛する映画を、話に聞いていた侍の軌跡を、今、目の前で巻き起こる少女の存在が綺羅星のごとく塗り替える。

これは、運命だ。

天のお導きのような紅い光が、汰壱の視界に射し込んだ。自然と涙を流していた。




『ぶ、ブラボー!!!』




バイク集団を一掃した少女に、泣きながらスタンディングオベーションした。

戦闘中もずっと無色透明だった少女が、わずかに眉の付け根を動かしたことを見逃さなかった汰壱は、矢継ぎ早に想いを叫ぶ。




『あ……I like you! I'm crazy about you! どうかボクをあなたのおそばに……!』




オタクの性をここぞとばかりにフル稼働させるも、少女はさっさと横断歩道の対岸に行ってしまう。




『ま、待って……待って、待ってください! 女王様!!』




焦れて口をついた、畏怖の呼称に、奥へ消えようとする少女が一瞬、不敵な一瞥を与えた。ドキッと心臓が爆発しかける。

少女はすぐに前を向き直し、先を進んでいく。出会い頭には聞こえなかったブーツの足音を、今度はどこまでも明瞭に響かせながら。


青信号が点滅し、汰壱はあわてて白線を越えていった。

恐怖心はとうに溶けて消えていた。



その半年後――汰壱は神雷4代目きっての参謀として、誉れ高い命を授けられることとなる。


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