氷雨逆巻く天つ風の夜に【完】
知らないことは氷雨が全て教えてくれる。

常識はもちろん、戦い方や、そして女としての喜びも。

長い間母に想いを寄せていた氷雨の心を奪うにはどうしたらいいか…幼いながらにいつも考えていた。

生家は朔たちの暮らしている屋敷ではないが、氷雨の教育を受けるため泊まることも多く、赤子の頃は襁褓を替えてもらったことも多い。


「大丈夫か、朧…」


何も考えられなくなって息が切れていた朧が氷雨を見上げると、半開きの唇がとても色っぽくてきゅんとして、手を伸ばして氷雨の頬を包み込んだ。


「だい、じょうぶ…」


――額に何か固いものがあたって弾けた。

指で拭ってみるとそれは水で、氷雨の汗だと気付くのに時間がかかった。

汗は氷雨の肌についている時は液体だが、肌から離れると氷になり、それが珍しくて拾い集めようとして、けれど触れると水になって、幼い頃不思議でたまらなかった。


「氷雨さん、汗が…」


「まあ俺もすごいけど、お前の方がすごい。身体が冷えるといけないから…」


身体を起こした氷雨が布団を被り、朧を包めてふたりで簀巻き状態になった。

本来ならこうして抱きしめられるだけで相手は氷漬けになる。

だが伝わってくるのはただただ優しい温かさで、細いがたくましい腕に抱かれながら小窓の方を見た。


「そろそろ戻らないと…」


「まだいいって。こら、俺に集中しろ」


意外と独占欲が強いのか――鼻をむぎゅっとつままれて笑った朧は、頬杖を突いて桜桃の皿に手を伸ばした上腕二頭筋のたくましさにまたきゅんとして氷雨にぴったりくっついた。


「汗引いたか?女は身体冷やすと良くないからちゃんと…」


「氷雨さんにくっついてればあったかいから大丈夫」


そっかと言って笑った氷雨をこうして独占できる機会は少ない。

何故ならば彼にとって一番大切なのは、当主の朔を守ることであり、命を懸けるべき相手なのだから。


「私のためにも命を懸けてくれますか…?」


「ん?なんて?」


訊いてみたい――

桜桃をもぐもぐしている氷雨のしなやかな肩に手をかけて、身を乗り出した。
< 77 / 281 >

この作品をシェア

pagetop