【完】絶えうるなら、琥珀の隙間
「す、翠……」

唖然としたように弥依彦が呟いた。
顔色が非常に悪い。恐らく自分の顔色も同じくらいに酷い自信があった。

よもやカヤと弥依彦が部屋の中で絶望しているとは露知らず、翠は気遣うような調子で呼びかけてくる。

「どうしても今決めておきたい事があるのだよ。朝には祝言の準備は整ってしまうだろう?それまでに決めなければ間に合わないのだ」

「少しで良いから、話せないか?」と言った翠に、弥依彦は避けられない、と悟ったようだった。

「ぐっ……わ、分かった!少し待ってくれ!」

叫んだ瞬間、弥依彦は小声でカヤに囁いてきた。

「おい、服を着ろ、早くっ」

そう言いつつ、慌てて寝台の下に落ちていた自分の衣を手に取る弥依彦。
カヤは縛られた両手を弥依彦に差し出しながら、必死に訴えた。

「いやいや、手を解いて下さい……!」

「今それどころじゃないっ」

「なっ……」

動揺している弥依彦は、自分が服を着る事しか頭に無いようだった。
弥依彦一人が服を着たところで、カヤが半裸で手を縛られているのを見られれば、どう考えても修羅場が起きると言うのに。

その馬鹿さ加減に言葉を失っていると、入口の方から翠の訝し気な声が聞こえた。

「……弥依彦殿、そこに誰か居るのか?何やら話し声が聞こえた気がしたのだが」

ドクンッと心臓が飛び上がる。

どうしよう、どうしよう。
この窮地を脱する良案が欠片も思い浮かばない。

覚束ない手つきで衣の紐を絞めようとしていた弥依彦が、焦ったように口を開いた。

「いや、居ない!居ないぞ!僕一人だ!もう少しで出るから、待て……って、あれ……?」

その言葉が、急速に萎んだ。

「……え?」

ピタリと動きを止めた弥依彦に、カヤの口からも戸惑いが漏れる。
次の瞬間、寝台に膝立ちになっていた弥依彦の大きな図体が、ぐらりと揺らいだ。


――――ドウッ!
あ、と思う間も無く、鈍い音を立てて弥依彦の体が床に叩きつけられた。

「ちょ、ちょっと……!?」

慌てて寝台の上から見下ろすと、弥依彦は苦しそうに体を折り曲げ、床の上で悶えている。

「う、ぐぅ……げほっ、げほぉっ!」

激しい咳と共に、びちゃ、と嫌な音を立てて、弥依彦の口から嘔吐物が飛び出してきた。

「ひっ」

あまりにも予想外の出来事に、カヤの喉から潰れた悲鳴が上がる。

「弥依彦様っ……?弥依彦様!?」

「弥依彦殿!どうなされた!」

異変に気付いたらしいハヤセミと翠が、布の向う側から叫んできた。

「くるしっ、い……くるしい!ぐぁ、あああ……!」

苦悶の表情で胸を掻きむしる弥依彦は、とてもじゃないが返事をする余裕は無さそうだった。

カヤもまた、どうして良いのか分からず、ただただ弥依彦の苦しむ姿を見つめるしかなか無い。

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