御曹司は偽婚約者を独占したい
「マスターに注意されてから俺なりに考えてみたんだけど、ほら、俺ってお客様だろう? 俺はお客様だから、あのマスターより偉いんだし従う必要はないんだって気がついたんだ」
彼が何を言っているのか、よくわからなかった。
ただ、笑っているのに笑っていないクロスケさんの目を見ているだけで、身体の震えが止まらなくなったのは確かだ。
声を出したいのに思うように口が開けない。
人は、本当に恐怖を感じたときには身体は言うことをきかなくなるのだと、私はこのとき初めて知った。
「今日はもう仕事終わりだよね? だったらこれから、俺の家に遊びに行こうよ」
「や……っ!!」
再び力強く腕を引かれて、身体が大きくよろめいた。
掴まれている腕が痛い。
この時間、それなりに人通りはあるけれど、すぐそばの裏路地に引きずり込まれたら人目にはつきにくくなってしまう。
「ちょっとさぁ……ほら、早く行こう……ねぇ、ねっ」
再びネットリとした声が耳に触れて、いよいよ目に涙が滲んだ。
『怪我をしたり、危ない目に遭ってから後悔したって遅い』
脳裏をよぎったのは、つい先ほど窓際の彼に言われた言葉だ。
楽観的に考えているのは危険だと言った彼の、言葉のとおりになってしまった。