流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 ナヴェルが向かったのはナポレモの東側にあたるサンミケーネの城郭だった。

 高くそびえる城壁を支える巨大な岩盤に取りついたかと思うと、這いつくばりながら老人が登っていく。

 あの大げさな甲冑を身につけているにもかかわらず身のこなしが軽い。

 花崗岩の岩肌は長年の風化で宝石のように滑らかで足がかりとなるものがまるでない。

 おまけに冬の寒さがしみこんでいて、あっという間に手の感覚が失われていく。

 手のひらを岩に吸い付かせ、膝をついて体を支えながら登っていく。

 滑ったら真っ逆さまだ。

 エリッヒは甲冑の老人についていくのがやっとだった。

 先に岩盤を登り切ったナヴェルがロープを垂らす。

 二人はロープにすがりつきながらなんとか岩を登り切った。

 サンミケーネの城郭はナポレモ東側の低地からの外敵侵入を阻むために拡張された外城郭で、それに面した岩盤の高さも相当なものであった。

 眼下遙かに城郭市街地の屋根が広がっている。

 見おろすだけで目がくらむ。

「向こうに岩の裂け目がありますのでな。そこから地下に入れますぞ」

 ナヴェルはロープを引き上げて肩にかけると、城壁の石の継ぎ目に指をかけて懸垂しながら反り立つ壁を水平に移動し始めた。

 エリッヒはシュライファーと顔を見合わせた。

「あんた、行けるか?」

「いえ、こんなことができるのはナヴェル様だけでしょう」

 鋼鉄の甲冑に羽でも生えているかのように老人は壁を伝っていく。

 まるで軽業師ではないか。

 たとえ騎馬民族でなくても、こんなところから城内に侵入できるなどと考えるわけがない。

 ロープを投げてもらうのを待つしかなかった。

 二人は岩盤のくぼみに身を隠しながらナヴェルの様子をうかがっていた。

 岩壁に止まっていた鳥が大きな翼を広げて飛び立ち、風に乗ってゆるやかに旋回していく。

 寒さで体が震え出す。

 シュライファーが背後から言った。

「あなたは確か騎兵士官と名乗っていましたね」

 成年の儀の祝賀会でのことだ。

 振り向かずにエリッヒはつぶやいた。

「覚えているとは光栄だね」

「お嬢様に一度でも関わった人間の顔を覚えておくのも執事の務めですからね」

「あんたはなんでも知ってるんだな」

「教育係の務めですからね。お嬢様を教育したのは私です。エミリアお嬢様への忠節は今も変わりません」

「だろうな」

 エリッヒは振り返ってにらみつけた。

「あんたのせいでエミリアの時は過去のままで止まっているんじゃないのか」

 執事は城壁にぶら下がるナヴェルの方を気にしながらうなずく。

「ならば、あなたが新しい時を刻んで差し上げればよいでしょう」

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