流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 それができれば苦労はしない。

 この男がいる限り、彼女の心を奪い取ることはできないのだ。

 エリッヒは怒りにまかせて執事の胸ぐらをつかむと岩壁に押しつけた。

 執事は動じない。

「私を殺しますか。ここから突き落とせば簡単です」

 眼下にサンミケーネ市街地の屋根が見える。

「私を殺したところで、お嬢様の過去は手に入りませんよ」

 そうだろう。

 そんなことをしてみたところで、自分の弱さを認めるだけだ。

 残るのは虚しさだけだ。

 エリッヒは気づいていた。

 これは自分の問題なのだ。

 俺はただこの男を言い訳に使っているだけなのだ。

「過去のまま時が止まっているのはあなたなのではありませんか」

「なっ……」

 無表情で核心を突く執事と目を合わせることができずにエリッヒは背を向けた。

 ナヴェルが岩盤の裂け目に到達したらしい。

 岩にくくりつけたロープを投げてよこす。

 受け止めてしっかりと握り直す。

 エリッヒにためらいはなかった。

 執事の言葉から逃げるように、目もくらむような岩壁から振り子の要領で一気に身を投げた。

 体が宙を舞う。

 氷の塊に割って入るようなしびれる痛みに包まれるが、落ちていく感覚は思いのほか心地よい。

 上下の感覚が失われ、浮遊感に包まれる。

 振り子が最下点を通過して体が上昇を始める。

 手を離せば飛べそうな気がする。

 次の瞬間、最高点に達した振り子が揺り戻しを始めた。

 冷気に握力を失いかけてエリッヒは思わず死を意識した。

 感覚を集中しロープにしがみつく。

 死を意識すると生に執着が生じる。

 めまいが生じ全身を血液が激しく駆け巡る。

 エリッヒは戦場に出るといつもこの感覚に襲われていた。

 命など惜しくはない。

 だが、死を意識する瞬間、振り子のように生に引き戻されるのだ。

 死の恐怖が際立たせる現実的感覚を噛みしめるために彼は命を投げ出すのだ。

 そのたびにフランセルのささやきが聞こえてくる。

 生きて、と。

 ああ、俺は死なない。

 必ず生きて帰る。

 あの時も俺は約束したんだ。

 だが、いなくなっていたのは……、フランセル、おまえじゃないか。

 エリッヒはロープをつかむ手に力を込めた。

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