流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 宿の一階部分が厩になっている。

 馬の手入れが終わるころかと思って行ってみたが、エリッヒはいなかった。

 水でもくみに行っているのかと中庭の井戸の方へ行ってみた。

 宿屋と酒場、それと商人の館に囲まれた場所には中央に井戸があり、街道から宿屋の厩をくぐって街の者が自由に入れるようになっていた。

 煉瓦を組んだ台の上で火が焚かれ、酔いの回った客達が踊りながら歌を歌っている。

 さっき部屋から聞こえたのはこの歌声だったようだ。

 井戸で水を汲んでいる人はいないようだった。

 中庭を出ようと振り返ったとき、壁際で話し込んでいる男女が目に入った。

 女は壁に背をつけて男をまっすぐに見つめ、男は壁に手をついて女と密着している。

 女の顔には見覚えがあった。

 ナポレモの城館で会った女性だ。

 エミリアが名前を思い出そうとしていると、こちらを向いている女と目が合った。

 片目をつむって、エミリアに合図を送ると、男の耳元に口を寄せて何かをささやいた。

 男が女から離れて振り向く。

 どうして……。

 それはエミリアが探し求めていた男だった。

「エリッヒ!」

 思わず声を上げてしまった。

 その瞬間、女の名前が頭の中に大きく浮かび上がった。

 サリヌ伯爵夫人、夜の貴婦人ジュリエ。

 ナポレモの城館に現れた家庭教師の女だった。

 どうしてエリッヒと……。

 エミリアは二人に背を向けて駆けだした。

 厩をくぐり抜け、街道に出てあてもなく走った。

 どこでもいい。

 とにかくその場を離れたかった。

 街角を曲がり、家路に就く人々の間を縫うように駆け抜ける。

 ふだん走ったことのないエミリアはすぐに息が苦しくなってしまった。

 路地の暗がりに駆け込んで立ち止まる。

 自分はなんてだまされやすい人間なのだろう。

 しゃがみ込んで大きく息をする。

 昨夜エリッヒに『だまされているんだ』と忠告されたばかりだった。

 そして、その忠告を信じたその男自身にもだまされていたのだ。

 お人好しで甘く、何も知らない愚かな女。

 裏表が無く、つまらない女。

 何もかも奪われ、手玉に取られる馬鹿な女。

 涙が出るのをこらえることができなかった。

 心をゆだねて信じていた男が他の女に微笑みを向けていた。

 もう誰も信じられない。

 あの男だって、私をフラウムへ連れていって報酬をもらったらどこかへ行くつもりだったのだろう。

 自分はただの金づるだ。

 エリッヒも昨夜襲ってきた男達と、結局は変わらないのだ。

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