流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 涙をぬぐっていると、闇にしずむ路地の奥から、地を這うようなうなり声が聞こえてきた。

 闇の中から荒い息が近づいてくる。

 エミリアは動けなかった。

 グルルル……、バウッ!

 犬だ。

 しゃがみ込んだエミリアと目線が合った。

 鋭い目つきに、思わず立ち上がって後ずさった。

 バウッ、ガウッ!

 弓なりの細い胴体に長い脚が伸びた大型の猟犬だ。

 ナポレモの城館にいたような愛玩犬とは違う。

 犬はうなりながら間合いを詰めてくる。

 逃げなければと思うのに、膝が震えて動けない。

 助けを呼ぼうにも声が出ない。

 ウゥゥゥ……、ウォンッ!

 路地裏に犬の鳴き声が反響する。

 どこか遠くから共鳴した犬の遠吠えが聞こえた。

 目の前の犬は口からよだれを垂らしながら頭を突き出して威嚇してくる。

 エミリアは壁に沿って後ずさりながら、民家の上がり口に一段上った。

 犬はこちらを見上げながら一歩また一歩と間合いを確実に縮めてきた。

 ウォンッ、バウッ、バウッ!

 手を振って追い払おうとしても、その手をめがけて牙を突き出してくる。

 エミリアはドレスの布地をつかんで、闘牛士のマントのように広げて振りながら、なるべく自分を大きく見せようとした。

 一瞬犬が後ずさる。

 そのすきに逃げようとして、上がり口の階段から足を踏み外してしまった。

 転げそうになるのをなんとか踏ん張ったものの、背中を丸めて路地に左手をついたとき、犬が跳びかかってきた。

 思わずうずくまって目を閉じた。

 噛まれる!

 と思った瞬間、鈍い音が聞こえた。

 それから、ガラスの砕ける音がして、バウッバウッという声も聞こえた。

 だが、それは犬の鳴き声ではなかった。

 目を開けると、大きく手を広げながら割れたワインボトルを振って犬を追い払っている男がいた。

 男は犬に向かってバウッと吠えながら威嚇しているのだった。

「エ、エリッヒ!」

「立てよ、誇り高き王女様よっ!」

 腕を引っ張られて、後ろに押し出される。

 エリッヒが犬との間に立ちふさがって盾になっていた。

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