熱情バカンス~御曹司の赤ちゃんを身ごもりました~

「ありがとう。……待ってるわ。もっといい男に成長したあなたを」

「詩織こそ。今よりずっと綺麗になって、俺を待っていて」

そんな会話の後、名残惜しさに浸るようにしばしぎゅっと抱き合い、私たちは別れた。

涙は出なかった。たぶん、無意識に自分を守ろうと、あらゆる感情を心から閉め出していたのだろう。

店を出て、何気なく振り返った入り口のガラス戸に映った自分の顔には、梗一に向けた微笑が能面のように張り付いたままだった。

私はひとり飛行機で島に戻り、タクシーを使う気にはならなかったので、アトリエまでの道を歩くことにした。

澄んだ青い空、美しい海。湿った深い森に、広大な田園。島の自然は今までと変わらず私を受け入れ、穏やかに包み込んでくれる。

……大丈夫。ほんの少し、甘い夢を見ていただけなのだから。

うっかり感傷に浸ってしまわないよう、私は何度も自分にそう言い聞かせた。

歩き続けるうちに次第に日は傾き、オレンジ色の太陽が水平線に飲み込まれそうになるころ、ようやく私はアトリエに帰ってきた。

いつものように作業場のドアを開けると、目の前を真っ白なシーツが覆っていた。

そういえば、このシーツはあの時の……。



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