私は視えない。僕は話せない。
 どうしようか、と迷っている内、彼女は僕に名前を問うて来た。
 声が出せないのに、無茶を言う。

 少し悩んだ末、僕はふと、握っている彼女の手に目が行った。
 これならいけそうだ。

「ひゃっ…! な、何ですか…!?」

 急に手に平を這った指の感触に、姉は声を上げながら身体を震わせた。
 名前を書いてるんだよ。そう言いたい旨を孕んで、僕はその手を何度かぽんぽんと叩いてみた。
 書いてくれるんですか、と彼女が控えめに聞き返すと、僕はゆっくりとそこに自身の名前を綴っていく。

――やまもと たくや――

 分かり易く、全てひらがなで。
 書いている最中、姉は何だかもどかしいような悩ましいような声で身体をくねらせていた。

「やまもと、たくや――やまもとたくやさんですね。山の本を拓く也、で字は合ってますか?」

『うん』

「そうですか。改めて山本さん、起こしてくれてありがとうございました」

『気にしないで』

 それだけ書いて、僕は姉の手を離した。
 代わって、ただ見届けているだけの母が「そろそろ」と口を挟む。

「あ、うん。またどこかでお会いしましたら、その時はまたお話しましょうね。本当にありがとうございました、山本さん」

 そう言って姉は上体を倒す。
 僕は控えめに手を振ってみるが――それは母にしか伝わらなかった。
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