この人だけは絶対に落とせない
8月
 朝一出社の日の前日は出来る限り早く寝て、仕事に備えている関だが、それでも繁忙期がくると身体に疲れが残るような年齢になってきていた。

 それもきちんと自覚しているのだが、自覚したからといって治るものでもなく、ただただ身体を休ませることを考える他ない。

「おはようございます」

 店長室に入るなり、柳原が追いかけるように入ってくる。

「これ…」

「えっ!?」

 柳原に手渡された一枚のプリントを見て、思わず声が上ずった。

「その話題で昨日から持ち切りですよ」

「………」

 関はA4の小さな用紙を両手で握り締め、まじまじと見つめる。

「………何か知りませんか?」

 柳原の声は聞こえるが、到底答えられなかった。

「………」

 湊部長が営業部から外され、役職なしで庶務課に配属されたなど。まるでわけが分からない。

「……私も何も聞いてません」

 しかも、代わりには部長代理の登(のぼる)が上がっている。その穴埋めも下から上がってきていた。更に下には知らない名前が上がってきている。しかし、まさか。下を上げるために湊が左遷されたわけではあるまい。

「………」

 関はようやく用紙から顔を上げた。

「……」

 が、出る言葉はない。

「体調不良、とか、そういうことではないですよね?」

 柳原も案を絞り出したという感じだった。

「………」

 もちろん、そんな風ではなかったし、たかが体調不良ごときで役職を降りるどころか異動するなど、湊の性格からして考えられるはずがない。もしも、癌にでもなったのだとしたら、潔く休職するだろう。

「………うん……。いや、ほんとに何も聞いてなくて……」

「………昨日、実はこっそり聞いたんですが」

 あまりに早い切り替えしに、関は柳原を睨んだ。

「いや、私もそれが、事実なのかどうかは全く分からなくて…ただの噂かもしれませんが」

「何?」

 それでも聞きたい。どんな悪事を働いたのか。どんな不正に失敗したのか。

「昨日、廊下を歩いてたら悲鳴が聞こえて。そしたら、ここで人事を見た緋川が悲鳴を上げてたんです。で、何事かと聞いたら……。

 実は湊部長が南端店の野坂さん…主婦なんですけど、そのパートとファミレスの駐車場でいた所を見たって。その前日と湊部長が同じ服を着てたって言うんです。
 ……誰にも言わないでと言われたんですけど……」

「う、嘘だろ……」

 関は口元に手を当ててもう一度辞令を見た。そんな、たかが主婦ごときに心を奪われて……。

 いや、そもそもあの人は女を抱けない身体になってたんじゃなかったのか!?

 婚約者に裏切られたのをきっかけに、何年も精神的に身体がいうことをきかなかったんじゃなかったのか!?

「……嘘じゃない気はしましたけど…それがこれに関係しているのかどうかは分かりません」

 そんな馬鹿な……あの人に限って全てを失うほど、世の中を見失うほど女なんかにうつつを抜かせることなんて、そんなことなど……。

「ところで、部長代理が部長に上がってますけど。まだ32くらいですよね」

 柳原は急に話題を変えた。

「あぁ……いや……年はよくは知らない……」

「確か、私よりは4つくらい上だったような…」

 関はその話を勝手に切り上げ、

「……そんな、バカな」

 額に手を当てて、もう一度辞令を見た。

「……何が事実かは分かりませんけど……その辞令だけは確かなようですね」

 実に的を得ている。関は、息をすることも忘れ、ただ茫然ともう一度辞令を見つめた。柳原のセリフも緋川の噂も全てが宙に浮く。

 湊が部長から平に降格される。こんなことは、入社してただの一度も考えたことのない、予想する価値もない空絵事だった。




 緋川が本社の庶務課に異動になると内示があったのは、湊元部長が庶務課に異動になった衝撃の人事の1日後のことだった。

 人事から直接社内電話を受けて、悲鳴を上げそうになった緋川だが、どうにか沈黙で耐えた。

 子機の通話ボタンを押し、切れたことを確認してから、隣にいる電話を取り次いでくれた関店長の顔を見る。

 誰もいない廊下で、関は、無表情だがしかし、180センチの高さからこちらを見降ろしながらも、心配そうな声を出した。

「良かったな、本社栄転、おめでとう」

 まさか、その顔からこんな言葉が出て来るとは思わなかったので、緋川は目を見開いた。

「いっ、えっ…」

 一旦目を逸らし、

「え、栄転…なんですか?」
 
 と、確認する。

「そうだ、栄転だよ」

 それだけ言って、売り場に戻る方向に身体を向けたので、

「ちょっと待って下さい!」

 慌てて呼び止めた。

「う、そんな…う、嘘だとは思いませんけど。な、なんで私が……」

「そりゃ、本社が認めたって事だよ」

 関はしらっと言い切る。そのなんとなく表情を作ったような表情からは、特に読み取れることはない。

「そ…え……でも、これって湊部長と同じところって事ですよね」

「元ね。それにこれからは、湊さん、と呼ばないといけない。気を付けて」

 緋川は無言で何度も首を縦に振る。

「な…なんで私がそんな役…」

 言った後で気が付く。役、というのは湊に対して随分失礼だ。

「こら、役って何?」

 若干、関がいつも通りになってくる。関は半分笑いながら、

「役も何も…。庶務の仕事をするだけだよ。周りとの協調性は大事だけど、仕事はそれだけじゃない」

「………私……本社に知り合いいないし……そんな…なんで私……」

 関はそれに対して何も答えないのが分かっていたので、床に向かって問いかける。何故自分がそんな行きにくい場所に呼ばれたのか。むしろ、自分も何かしたのか。いや、そんなまさか、人事を揺るがすほどのことなんて、何もしていない。

 ぽん、と肩に大きな手が触れ、慌てて関の顔を見上げた。

「緋川。ここがチャンスだよ。

 2万人を超えるこの会社でただ1人選ばれたのは、緋川だ。売り場と本社は全く違う。

 だけど、この会社で仕事をしたいと思うなら、本社でしっかり仕事をしてくるといい。本社で自分ができることを探すといい。ここへは、いつでも帰って来られるんだから」

 若干、最後は関の顔が曇った気がして、緋川は目を逸らした。

 1週間後には本社だ。

 しかも、湊部長と同じ課……。

 問題は山積みなのに、関はテンプレートなセリフを言うだけ言うとさっさと売り場に戻っていく。自らは本社から降ろされ、その後作り出すことに成功した、聖域ともいえる売り場に。こちらのことはもう構わずに、堂々と入り込んでいく。



 しかし、溜息をついてばかりはいられない。
 たくさんの人に、「大変だね」と声をかけられ、その度に心が沈むが、逆にその事ばかり考えているわけにもいかなかった。
 湊部長と一緒が「大変だ」というのが大半の意見だが、かといって本社に行って湊部長と2人で座っているわけではなく、庶務課で庶務の仕事をするのがこれからの役目なわけで。

 本社と店はおそらく色々違うのだろうが、せめて店のことを知っておかなければ。この1週間だけでも本腰を入れて勉強しようと思った翌日が、監査の前日であった。

 東都は抜き打ち監査が月1回、定期監査が月1回ある。

 その定期監査の前日だった。

 定期監査は日にちが最初から決まっているのでその対策をいつも立てておくことができる。

 今日はその日で、庶務と監査はまた畑が違うが、いつもどのように書類の対策をしているのか、役職レベルのことも今なら教えてもらえるはずだと、

「武之内副店長」

と適役であろうその人に声をかけた。

 決まって前日は店長と、3人のうちの2人の副店長が出勤している。そのうち本日は柳原と武之内が出勤しており、その中でも武之内が監査事項確認役というのがシフト業務に充てられていたのをちゃんと確認していた。

「はい」

 ほとんど話をしたことがない武之内だったが、そんなことは今はどうでもいい。

「あの、後1週間で本社なので…。関係ないかもしれないですけど、監査事項の確認を勉強したいんですけど、一緒にさせてもらっていいですか? 一応店長に確認はとっています」

「ああ、どうぞ」

 平たい頬から、なんとなく夫婦の不仲説が浮上する。

 なんでも、出来ちゃった婚の上の流産だったらしく、今奥さんが倉庫担当でいるが、2人が会話しているところを見た者は誰もいなかった。

 武之内は事務的に、作業内容を説明し始める。

「まずこの全店共通の監査項目要項をパソコンで出力してから、関店長が独自に作った要項も出力」

 監査対策にそこまで力を入れていることを全く知らなかった緋川は、感心するやら驚くやら、

「へえー……」

と頷きながら、何をメモすることもなく、メモとペンを握る。

 出力した用紙を武之内が手にし、副店長が主に使う事務室と繋がっている資料室に2人で入る。

 と、事務室に誰か入って来た物音が聞こえたが構わず、今月分のファイルを取り出し、資料をめくって確認印を押してあるかどうかを無言で確認していく武之内の横からじっと見ていると、

「ドアは開けておいて」

 という柳原の声が聞こえて、2人同時に声の方を見た。

 すると、まさに、武之内の奥さんである、武之内 依子が事務室の中に入って来ていた。

 まさか、ここで武之内から「あぁ、依子」なんて言葉が出るのではないかと、期待して顔を見上げると、彼は人差し指を立てて唇の前に持って来た。

 静かに、という合図に、緋川は驚いて息を殺した。

 何が始まるのか、一体何を武之内は聞きたいのか、わけが分からず、ただ音を立てないように全身を硬直させる。

「私…色々迷ってることがあるんです」

 依子の顔も柳原の姿も何もここからは見えないが、声は随分真剣味を帯びている。

 ふと、嫌な予感がして、慌てて武之内の顔をもう一度見上げたが、彼は険しい顔でもう一度人差し指を立てて見せた。

 仕方なく、緋川は耳を澄ませることにする。

「……、他店への異動は決まってる」

「はい、それはそうです」

「そこでレジカウンターをまた一から勉強し直す。それでいいじゃねーか」

「はい、そうなんです……」

「色々、迷ってるんなら武之内副店長に相談したら?」

 そこで、辺りが完全な静寂に包まれてしまう。

 緋川はこれ以上ない居心地の悪さに全身を縛られた気分だった。

「……できません」

 最悪の会話を聞いてしまった……。

 と思っているのは私だけではない。武之内、本人の方が尚更だ。

「……俺は、他の店で頑張ればいいと思ってる。それくらいしかアドバイスできねーよ」

 普段一人称は「私」の柳原が、随分言葉尻を乱した。それだけ、依子との仲の良さが伺いしれる。

「そうです。……後藤田(ごとうだ)さんとも今は……他の誰とも今は連絡を取っていません。私は、ここできちんと自立してやり直すことに決めたんです」

「……、なら、何を色々迷うことがある?」

 まさか、柳原に告白などするつもりではなかろうか。

 まさか、ここで柳原が依子を抱きしめたりはしなかろうか。

 そういう面白い展開を半分期待している自分が確かにいたが、しかし半分は正常で、お願いだから今この場でだけは居心地を悪くさせないでほしい、と願った。

「……私は、自立して、離婚しようと思っています」

 今度は沼のような闇が訪れた。もはや息などできはしない。

「………、なんか、夫婦仲が戻ったようなことは言ってなかったっけ?」
 
 意外に柳原は落ち着いている。

「……一時はそうだったんですけど……。やっぱり元が元だし…一緒に仕事してるとダメなんです」

「なら麻見が。いや、武之内サンが他店に異動するんだから。また仲が戻るんじゃない?」

 麻見というのは、確か旧姓だ。ということは、2人は古い仲だといえる。
< 10 / 40 >

この作品をシェア

pagetop