この人だけは絶対に落とせない
「それでいいと思いますか?」

 どうやら。

 どうやら、依子の方が迫っている事は間違いなさそうだ。それに対して柳原は。

 おそらくふっと笑って、

「何? それでいいと思うけど?」

 表情が見えないが、半分拒否はしていると思うが、半分は依子をキープしているようにも見えなくはない。

「なら、離婚したら。また一緒に食事に行ってもらえますか?」

 消えたい気分だった。今このタイミングでは、絶対に聞きたくない一言だった。

 この女は何を考えている、と言いたい気分だった。

 乗り込んで行って、はたいてやりたい気持ちでもあった。

 だが、少し依子がそう言う気持ちも分かった。柳原がほんの少し、隙を見せているような気がした。

「そんなこと……。身を滅ぼすよ」

 その声は甘く優しい。

「あの日、避妊してくれなかった日から私の身はとっくに滅んでいます」

 一体、どういう……。

 思わず、武之内の顔を見てしまいそうだったが、我慢する。

「やめとけ。考える方向を間違えてる」

 柳原の声が若干普通に戻った気がした。

「やめません。きっと……」

『柳原副店長、柳原副店長、現在地お願いします』

 トランシーバーのイヤホンから、業務連絡が入り、一瞬依子の声が途切れた。と同時に緋川も若干
バランスを崩し、酸素不足でふらつきそうになるが、背後に立っていた武之内が両腕を無言で支えた。

 まだ、隠れ蓑を続けるらしい。

「あー、事務室。すぐ売り場に戻ります」

 柳原はマイクに応えた後、すぐにマイクのスイッチを切る。

「麻見……あんまり思い詰めるな。ちゃんと武之内副店長と相談しろ。いいな?」

 依子がその後どんな顔をしていたのかはもちろん、2人外に出てからも、廊下でまだ話が続いたのかどうかも分からなかった。

 数秒、息を殺していると、

「えっと、んー、どこやったかなあ…」

 関のパソコンへ向かっての独り言が聞こえて、2人はようやく息を吐いた。

「……」

 一旦目が合う。だが、

「わ」

という関の声が聞こえて2人は、瞬時に資料室入口のドアの方を向いた。

「びっくりしたー、いたの」

「………」

 何も言わずに武之内は1人外へ出てしまう。

 その雰囲気がどうもおかしいと感づいた関は、

「、どうかした?」

 と若干不審な顔でこちらを見た。

「えっ……」

 今まで息を殺していたせいか、すぐには声が出ない。

「何か言われた? そんなんじゃない?」

 関は何故かかなり深刻そうな様子で聞いてきたが、

「えっ、いっ、いえっ! 全然っ……いや、突然関店長がどうかしたって言うので…でもどうもしてないので…逆にビックリして……」

 自分でも動揺しているのがバレバレだった。

「………」

 関は既にいない武之内が辿った後を振り返っている。

「そ、私は全然関係ないことですけど。その…ちょっとヤバかったかも」

「………何?」

 唐突にドアを閉めた関に、緋川は驚いて、

「えっ!? いえそのっ、全然……」

「なんか様子が変だったよね」

 関は全責任を負うとばかりに、迫ってくる。

「その……その、武之内さん夫婦のその、修羅場的なところを偶然目撃してしまってーというところです。全然その、プライベートな域ですので」

「……あらあら」

 すぐにおどけモードで処理した関はドアを開けた。空気の密度が一気に薄まった気がして大きく息が吸える。

「修羅場…夫婦喧嘩してた?」

 いかにも、あまり興味のなさそうに、関は、事務室に戻るとパソコンを操作しながら聞いてくる。

「………ですね……」

「ふーん。緋川も大変な目に遭うね」

 ということは、湊部長と同じ部署に行く件もやっぱり大変だと思ってるんでしょうね。

 とすぐに喉まで出たが、もちろん黙っておく。




 その後、武之内が何をどうしたのかは知らない。監査を教えてもらうつもりだったが、もうそれは結局しなかったし、関にも簡単に内容は伝えられたし、もともとあまり関係のないことだったからそれで良かったのだ。 

 だがしかし、気になったのは今後の3人の動向だ。まあ別に、そのままほおっておいても構わないが、あの柳原の答え方はなかったと思う。

 おそらく、武之内もそう思ったはずだ。

 副店長同士で喧嘩など、絶対にあってはならないし、その場合、柳原が降格する。別に柳原に特別恩があるわけでもないし、武之内に特別恩があるわけでもないが、どうも柳原のことが許せない気が収まらなかった。

 もう後一週間でこの店から出て行くことが決まっている、というのが第一。

 柳原が許せないというのが第二。

 依子も最低な女だというのが第三。

 武之内が可愛そうだというのが第四。

 その日一日、頭の中をそれらがぐるぐる回って仕方なかった緋川は、柳原が自分と同じ19時に退社するのを確認するなり、一言物申すと決めた。ドキドキが止まらなかったが、裏口で掴まえ、実はあの時資料室で2人で居た事を暴露してやろうと思った。

 それで、武之内から叱られることがないように、精一杯柳原を逆に叱ってやろうと思った。

 まあ、もうこの後は柳原とはほとんど会わないし。

 武之内ともほぼ会わないのだが。

 それがきっと自分にできることだと、妙に自分を言い聞かせ、20時過ぎ。1時間近く残業した柳原が裏口から1人で出て来たところを確認し、車で待機していた緋川はすぐに降りて声をかけた。

「お疲れ様です、柳原副店長」

「……忘れ物?」

 と、言いながらこちらに構わず自らの車の方へ向かっている。

「ちょっとお話、構いませんか?」

「えっ?」

 柳原は驚いてその場ですぐに足を止めた。

「すみません、今日私と武之内副店長、監査確認のために一緒に資料室にいました」

「……えっちょっと……すみませんとは、どういう事?」

 半分訳が分からないながらも、半分心配そうにこちらを見てくれている。

「柳原副店長と、武之内副店長の奥さんが話してた時」

 そこで柳原の動きが完全に止まった。

「私、武之内副店長と一緒に資料室でいました」

 まるで、彫刻にでもなったかのような柳原を目視することが出来ず、緋川は顔ごと逸らして続けた。

「聞くつもりはありませんでした。私は。でも、武之内副店長が……黙ってろというので……そのまま立ち聞きしました。話は…最初から最後まで全部聞きました。全部聞えました」

 まだ、柳原は動かないし、喋らない。

「私は…途中で…本当にこのまま出て行かないつもりなのかと思いましたけど…武之内副店長は最後まで聞きたいと……そういう感じでした。

 その……私は、そのお2人が…というか、3人がどういう関係なのかは知りませんけど……。

 正直……、柳原副店長がそそのかしているというか」

「絶対違う!」

 叫ぶほどの勢いで、柳原は言い切った。

「でも、あの場で、その、声しか聞こえませんでしたけど、そんな感じじゃなかったですよ!? それは……武之内副店長もそう感じたんじゃないかと思いますけど…聞いてないから分かりませんけど」

「俺は一切そういうつもりはない」

 こんな男、ほんとにいるんだなと思い、腹が立つ。

「だって随分優しそうに言ってたじゃないですか。奥さんが本気なのは分かりました。それに対してはっきり断ってなかったじゃないですか!」

「こ、断るも何も! 人の嫁さんに何をせがまれたわけでもないのに…」

 逆切れというのは絶対にこういう事だ。

「せがまれてたじゃないですか! 離婚したら2人で食事行きたいって。でもそれ、断ってなかったじゃないですか」

「断ってたよ! 離婚するなって言ったろ!?俺は」

「そんな、完全な遠回しですよ。あれじゃあ期待しますよ」

「そっ……知るかよ」

 柳原は言い捨てて口元に手を充てる。

「柳原副店長はそうだったかもしれませんけど、奥さんは多分良い方向に取ったと思います。そういう流れでしたし、私もそう思いました。だから多分、武之内副店長も同じように取ったと思います」

「…………」

 柳原は、一時静かになったが、

「いや俺はそういうつもりじゃない。俺は離婚すればいいと思ったことはないし、例え離婚しても今更食事行こうとも」

「じゃあなんでそれをはっきり言わなかったんですか!?」

「お前な、同じ店の、同じ副店長の嫁さんでしかも部下で。ずけずけ物が言えるか!俺だって、察しろといつも思ってたよ! こっちが迷惑なんだよ!!」

 言い切ったはいいが、こちらの驚いた顔を見た柳原はハッと気付いてふっと顔を逸らした。

「武之内副店長は? 何か言ってなかったか」

 さすがに、冷静さをすぐに取り戻した。

「……何も……あの後、多分2、3分はまだ資料室でいました。そしたら今度は関店長が入ってきてすすぐに武之内副店長が出て行きました。その様子を関店長は不審に思って……わざわざドア閉めてまで何があったか聞いてこようとしましたけど…。とりあえず、夫婦喧嘩を見たとだけ言いました。そしたらすぐにドアを開けて…」

「…………、」

 柳原は額に手を当てて、鼻で息を吐いた。

 目も閉じ、何かを考えているようだ。

 緋川も黙って待つ。

「………、緋川」

「はい」

 少し、落ち着いたのか、柳原は目を開いた。

「お前、武之内副店長との間持てるか?」

「えっ!?」

 一体何をきかれているのか咄嗟に分からない緋川は、身体ごと一歩引いた。

「勘違いされて、俺をダシに離婚されるのだけは避けたい。直接話した方がいい。だけど2人きりよりは第三者が入った方がいい」

「それは分かりますけど……そ、それを私が……」

 やるんですか!?

 いやまさか、そんな流れになるとは思いもしなかったんですけど……。

「……20時15分か……」

 柳原はおもむろに腕時計を確認する。
「武之内副店長は今日は最後までだ。22時。出て来るのは23時くらいか。その後というと時間は遅くなるが、とりあえず話しかけるだけはしてみる」

「………」

 ま、まさか23時から一緒に話をするなんてこと……。

 緋川は若干視線を上げて、柳原を見た。

「確実に22時までは出て来ないし、店の中で夫婦で話すとも考えにくい。出て来たら話しかけようと思う」

 ……私が柳原をつかまえた要領でね……。

「待ちますか。しばらく」

 緋川も、腕時計を見た。同じ20時15分だ。

「悪いけどいてくれ。…お礼はするよ」


 
 まだ2時間弱、ひょっとしたら3時間弱あるかもしれない中、柳原は「飯を食いに行こう」という一言を選択した。

 これから起こる事を目の前に、あまり食欲の沸く状態ではなかったが、これはきっとお礼に当たり奢ってくれるはずなので「そうですね」と簡単に同意した。

 まあ、作戦会議は必要だ。

「ファミレスにしますか?」

 先日の10%券の事を思い出す。あの時は結局なんやかんやで出すのを忘れてしまい、期限も切れてしまったが、近くのファミレスはそこ一軒しかないし、適当ではある。

「……そうだな」

 さすがに上の空だ。

 大丈夫かと心配になりながら自分の車に乗ろうとすると、

「乗せてくよ」

と簡単に言われ、助手席に乗り込む。

 乗った瞬間、煙草の匂いが車中に充満していて、自分の車で行った方がマシだったと即座に後悔した。

 車内は綺麗にしている方だが、灰皿は灰皿として使用しているようで、臭いの原因がすぐに分かった。

 すぐに店に到着する。前回同様、あまり混んでいない店で柳原は簡単に「喫煙席」を選び、緋川は
仕方なく付いて行く。

「はあ……」

 いきなり溜息を吐いた柳原は、メニューも取らず、ズボンのポケットからタバコを取り出し、すぐに火をつけてから灰皿を引き寄せ、タバコを弾いた。

 緋川はとりあえず、メニューに目を通しながら、柳原を観察する。
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