この人だけは絶対に落とせない
その後、皆それぞれ手帳を広げスケジュールを書き込んでいったが、ほとんど頭に入らなかった。
 なんとか、日にちと予定だけはメモれたが、他の人が色々書いているのに、課長、の重役が恐ろしくて手が動かなかった。

 頭が真っ白になる。

 目の前で登が色々話していることは分かるが、顔を上げて話を聞くのが精一杯で、目を見る事すらできなかった。

 その後しばらくしてようやく解散になる。

 時計は9時過ぎで、たった30分しか経っていないのに、随分長い時間に感じた。

 皆、先に部屋から出て行く中、少しも動けず、スケジュール帳のその向こうを見つめた。

「緋川さん」

 檀上にいた登は皆が出たと同時におもむろに、先ほどまで女性が腰かけていたパイプ椅子を引いてそこに腰かけた。

「……」

 何も言い返すことができず、そのまま登の澄んだ、それでいて芯がしっかりしている瞳を見つめた。

「大丈夫、僕がついてる」

 それは愛する人に大事な時に言うセリフのためにとっておいてほしい、と思ったせいで言葉が余計出ない。

「………」

 だが、相手が何か待っていることだけは分かったので

「あの、どうして私なんですか?」

 そんなことが聞きたかったわけではない、言った後に自分でも疑問に思ったが、既に口にしてしまったので遅かった。

 登は、ゆっくりと瞬いて頷くと、

「理由はただ1つ。緋川にはできると思ったから。それだけ」

 随一の答えを出してくれたようだが、全く納得いかない緋川は、少し首を傾げながら、

「……できるでしょうか……」

 と、呟いた。

「成せばなる成さねばならぬ何事も、というよりは、やってやれないことはない、という方が好きだけど」

 登は1人、微笑する。

「他を探すつもりはないよ。緋川にやってもらう」

 言葉はさらりとしたそよ風に乗ったかのように聞こえた。

 しかし、内心は手足を掴まれた気分だった。捉えられた、標本にされる蝶が脳裏に過る。

「不安なことは多いと思う。だけど、基本的には他店を随時回るから、他店フォローをしに行くという感覚に近いかな」

「……」

 緋川は頷いた。

「基本的には、僕が、店長、副店長の指導をする。それ、以下の指導を森宮……あ、自己紹介忘れたな。さっきの若い男の方。を中心に緋川と織野(おりの)で行う」

 営業部長でも忘れることがあるんだなと少し親近感が湧く。

「来年からのTラインのことは湊さんを中心に進める」

 湊部長から湊さんになったのは、今日からのことだったはずだが、登はしっかりと言い切った。ひょっとして、湊さんになってほしかったんじゃないのかと、余計な詮索が頭を回る。

「……えっと……Tライン?」

 どこかで聞いたような言葉だが、よくは知らないので、恥ずに登の目をしっかり見つめた。

「さっきも言ったけど」

 登は若干、顔を顰めながらも続けた。

「Tライン…。ちょうど2年後に一般使用される新しい通信電波、全世界統一規格Tラインのことは知ってる?」

「……言葉だけは」

 今さら無知なのを恥じても仕方ない。

 登は続けて、

「テレビ、ラジオ、パソコン、電話、だけでなく、エアコン、インターフォン、白物家電、など。全ての電気機器をどの製品からでも操作可能な電波のこと。現行製品に後付けは不可能。4年後にはテレビ、パソコン、電話などの通信機器は全て現行商品は廃棄処分になるけど、2年後からの2年間は政府から補助金が4割出るんだよ」

「……そうなんですか……」

 何の折にもそれほど詳しく聞いたことがなかった緋川は、ただ俯くしかない。

「しかもその補助金は、製品購入後、購入した店の商品券が後日郵送されるから、これからは新商品開発にメーカーも急ぎ、販売促進側も忙しくなる。そこを全部じゃないけど、湊さんにもとりあえずは手伝ってもらうから」

「あ…はい」
 
 とりあえず……。

「だから、要は、この課は森宮と緋川が中心になる。森宮は中型店の店長、東都の部門長までは経験があるから、部門長以下の指導を、緋川は店全体」

「ぜ、全体ですか!?」

「うん全体」

 登は笑った。

「これは経験を積んでいかないと分からないものだけど、色々な店を数多く回っていると見えてくるものがある。今うちが抱えているのは50店舗。そこを1つ1つよくしていく」

「………はい……」

 具体的に何をどうすれば良いのか思いつかず、一応、ペンを手に取ってみたが、何も書くことは思い浮かばなかった。

「基本的には4人で回ろうと思ってる。今までは湊さんと僕が1人ずつ色々回ってそれぞれ指導していってたけど、あまり効率はよくなかった」

 湊をあからさまにさげずんでいるのがよく分かる。

「それに、女性がいた方が断然いい。従業員の3割は女性だし、最近は精神的な悩みも多いから。カウンセリングの勉強もしていってほしいと思う」

「……カウンセリング、ですか……」

 三島の顔が浮かんだが、どちらかというと、人をカウンセリングするよりも、自分が受ける立場なくらいなんだが、と思う。

「産業カウンセラーという言葉は、聞いたことがある?」

 ふいに聞いたことのない言葉に、更に不安が募った、緋川は小さく横に首を振る。

「これが資料」

 テーブルに何やら資料を置いていたことに今更気付いた。その中から1枚、パンフレットがいとも簡単に出てくる。

「半年間の講習後受験、費用は会社持ちだから。気にせず受けてくればいいから」

 って……。

「………」

 受け取って見た。カラーの三つ折りのパンフレットは合格率75%という文字を筆頭に、時間割りや細かい注意書きがたくさん目に入ってくる。

「講習は出勤扱いにするから。頑張って」

「………」

 何とも言えない重みが、突如頭から肩から、ずん、と圧し掛かってくる。

「あ、織野さんは臨床心理士の資格持ってるカウンセラーだから。会社が従業員のメンタルケアのためとして雇用した人。プロだから。勉強のことは相談すればいいよ」

 その人がいるんなら、私が資格を取る意味なんかないんじゃないかと即座に思う。

「織野さんも一緒には回ってもらうけど、労働組合や本社からのカウンセリング要請が入った場合はそこに行ってもらうつもりだから」

「はい……」

 別畑の人だったか……どうりで雰囲気が違うはずだ。

「さて。本題だけど」

 まさか今から本題なのかと思ったが、パンフレットをすぐに脇によけると、仕方なくもう一度登の目を見つめた。

「嘘、本題じゃないけど」

 若干笑うので、どういう冗談だと、驚いて少し背を引いた。

「……湊さんの件、現場にいたんだって?」

 若干期間が空いてしまったせいか、前置きがなかったせいか、急に現実味をおびた話をしたせいか、咄嗟に返事もできなかった。

「いなかったの?」

「……いえ……いました」

 あの話は自分と中津川以外は知らないはずだ。だけど…まさか、裏で繋がって……。

「すごい偶然だなあ」

 登は顔を逸らしながら、身体もしっかり前を向き、こちらからは横顔しか見えなくなる。

「………」

 あの話は他言しないよう言われていた上にしかも、写真まで撮ってしまっていたのでバツが悪い。

「……さあ、行こう」

 タイミングを掴むこともできず、登がパイプ椅子から立ち上がった。緋川も慌てて立ち上がる。

「今日はとりあえず本社の中を案内しよう。皆はそれぞれやらなきゃいけない事が分かってるから放っておいたらいい。明後日以降、他店を回る。スケジュールは今のところそれだけど、何かあったらすぐに変更するから。泊まる準備だけはいつでもしておくように」
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