この人だけは絶対に落とせない
3月1日

 髪をかなりのショートヘアにまで切った桜井は、目の端で久川が見入るのを空かしながら、この上ない集中力でもって仕事に取り組んでいた。

 関の「怖いくらいに集中していた」という言葉が頭を回る。きっとそういう時は表情が強張っているに違いないので、こんな時こそ、穏やかさを演出する。

 業務は順調だ。

 久川の噂のことは分からないが、それはもう過去のことなのでもう関係ない。

 それよりも、関に出された課題の方が気になって延々と考え続けていた。

 業務中の私語、スタッフルームでの会話。最初はカウンター陣声を集中的に拾っていたが、どうも埒が明かないので、重要資料閲覧室での役職者達の会話にも耳を傾けている。だが、それらしい収穫はない。

 つまり、自分から収集しに行くしかない。

「えっ? 髪……」

 ここのところ、休みや副店長会議などで出社が交互になり、全く顔を合わせていなかった市瀬副店長が久しぶりにスタッフルームまでの裏廊下のすれ違いざまに話しかけてきた。

 話し込むのは今のタイミングではないが、シフトを見るかぎり良い時間に恵まれそうになかったので、予約は入れておいた方がいい。

「あぁ、切ったの1週間くらい前ですよ」

「そうか。俺も他店監査と勉強会と連休でここ来たの5日ぶりくらいだからな」

 シフトによってはそういう時もある。

「……あの、少しご相談したいことがあるんですが」

 その小声に、市瀬は後ろを振り返った。次に、腕時計を確認する。

「上がりの後、飯でもいく?」

 まさか、そういう風に場を設けようとしてくれるとは思いもしなかったので、一旦言葉に詰まる。

 が、市瀬はそれを気にせず、

「俺は今日21時上がりなんだけど、桜井は何時までだっけ。朝からいるから18時?」


 まさか、退社時間を知らないとは思わなかったので、驚いた。随分雑な仕事をしている。

「そ、そうですけど……」

「待たせるのも悪いなあ」

 桜井も腕時計を見た。現在13時5分。

「市瀬副店長が17時半に休憩に入ったら、定時で退社します。できたら、ですけど」

「おぉ、いいよ。さすが」

「なんです?」

 桜井は、警戒しながら、笑った。

 たが、市瀬は何も言わず、正面から向かって来た、他の従業員にあえて話しかけた。


 今日の流れだと、午後から出社の副店長が17時半に休憩入るのも、カウンター部門長が17時50分退社も可能だ。

 それを読み切っている桜井は予定通り退社し、それにならった市瀬も休憩に入り食事を終えている。

 18時前、それぞれは示し合わせたように事務室に入った。例によって、扉は開け放たれている。先に来ていた市瀬に声をかけると、桜井は自らドアを閉めた。

「……、なんでしょう」

 市瀬は若干緊張しているのか、テーブルの上に両手を置き、身を乗り出した。

 髪は綺麗に散髪され、清潔感溢れてはいるが、実年齢は40半ばのはずだ。テーブルの上の両手は大きく、ごづごつしているのが印象的だった。

「実は、謝らなければいけないことがありました」

「えっ!?!?」

 大袈裟に身を引いた市瀬は、そこで固まった。

「な……何したの?」

 それでも、親身になるつもりで、身体を戻してくれる。

「いや…。カウンターの人達が、私が久川部門長と付き合っていてシフトを操作しているって苦情を言いに来た時、フォローしてくれていたことです」

「………」

 その時から既に時が経ちすぎている。

「すみません、だいぶ時間が経ってしまいました」

「あ、いや……。ほんとにシフト、操作してたの?」

 市瀬は落ち着こうとして聞いているようだった。

「いいえ。そんなつもりはありません。でも、そんなつもり、だったのかもしれません。仕事最優先ではなくなっていたと思います」

「………だった……」

 過去形を誇示してくるが、そこにはさすがに触れない。

「すみません。お手数をおかけしました。言わなければとは思っていました。だけど…なかなか、自分の口から出ませんでした」

 それは事実だ。課題に自分1人で取り組んでいたので周りのことなど気にもしなかったというのはあるが、謝った方がいいかもしれないと考えたことがあったのは確かだし、掘り返したくなかったし、市瀬はそんなことあまり気にしないだろうと思ったし。

「あ……いや……。それはいいんだけど……。

 まあ、お互い独身なんだし、若いし。

 いや、僕もシフトは特に問題ないと思ってた。だから、その…女性独特のひがみというか。久川が人気あるからね……、へえー……」

 本当に付き合っていたのか!?と言いたそうだ。

「その時は、どんな風でしたか?」

「え…? 何が?」

「どんな風に私のことを言ってましたか? いえ、私のことだけじゃなくて、カウンターのこと」

「……それ聞いて、どうするの?」

 随分酷い風に言われたんだということが、その一言で分かる。

「いえ…私のことは構わないんですが…。

 でも、あれからカウンターはよくなったと思っているつもりです」

「……どのくらい前だっけ?」

「1か月くらい前です」

「…忙しかったからなあ……」

 市瀬は特に何も感じなかったようだ。

「私も、目が覚めたつもりでいます。だから…カウンターの人が何か言いたいことがあって、それが市瀬副店長に聞こえたら、その時は教えてください」

「、もちろん」

 市瀬は簡単に言い切る。

 だがその瞬間、これは意味のない会話だったように感じた。

 きっと市瀬は一個人を大切にする。

 役職なんか二の次だから、部門長からそう告げられていても、リークはしない…。

「……ありがとうございます」

 納得いかないながらも、ゆっくり頭を下げた。

「なんか…悪かったな。嫌なこと言わせて」

 思いがけず、その言葉を真に受けてしまい、身体が固まってしまった。

「……」

 嫌なこと……。

「まあ、若い時は色々あるけどな……。ショートヘアも似合ってるよ」

 一瞬、笑顔を見せて、そのままドアを開けて、出て行く。

 市瀬に対して強い衝撃を受けた桜井は、そのまましばらく動くことが出来ない。

 もっていきどころのない感情を懐に抱いたまま、ただ茫然と今の会話を、次の人が入ってくるまでたっぷり10分トレースし続けた。
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