この人だけは絶対に落とせない
 3月15日

 関 一は心底重い気持ちでいた。死んだ方がマシだとは思わないが、死ぬ前の気持ちはこうかもしれない、と思えるほどだった。

「東都の従業員のことで、話がある」

 登に本社まで呼び出されてしまった。

 つまり、責任を取れというほどのことの、何かがあったに違いない。

 溜息を声混じりで大きく吐きだし、車から降りる。数年前までは本社駐車場に毎日車を停めて出勤していたはずだが、今はそんなこともどうでも良いくらい落ち着かなかった。

 従業員のことはよく見て来たつもりだ…がしかし、カウンターのことは、桜井に任せていた。それが任せ過ぎていたのかもしれない…。今になって、部下を頼りすぎたことを後悔しても遅い。

 ここで、命拾いするはずはない。

「失礼します」

 会議室で待つように言われているので、そのまま入る。まだ誰もいないが、窓の外の光に吸い寄せられるように、窓際に寄った。

 すぐに、後ろからドアが開く。

「出勤のところ、申し訳ない」

「いえ」

 登(のぼる)営業部長の顔つきは、意外に穏やかだった。いや、この男こそ腹で何を考えているのか分かったものではない。

「さて……」

 登は、一番窓際の長テーブルに押し込んであるパイプ椅子を1つ引き自ら腰かけ、テーブルの上にA4の茶封筒を置いた。

 ……相談か……。

 若干落ち着きを取り戻した関は、同じように、隣の椅子を引く。

「……」 

 あえて、何も言わないつもりか。登は、無言で封筒を開け、数枚の写真を取り出した。写真、というのが意外だったので、身を乗り出して凝視した。

「まず、知ってたのか、知らなかったのか」

 断りもせずに、写真に手を出した。

 そこには、車内の助手席で少し俯く、元秘書の神条 紗羅と…運転席で自信満々にハンドルを握る風見の姿がこれでもかというくらい、言い訳も出来ないほどに、きちんとおさめられていた。

「…………、…………」

 2人は私服だ。プライベートだということは確実だ。しかも、昼間…。

「知らなかったみたいだね」

「いや……。それらしい、ということは、知っていました」

 言うだけのことは、言っておかなければならない。

「どうやって?」

 攻撃的な口調で聞き返してくる。

 関は、写真を置くと、構わず溜息を吐き、

「2か月ほど前…2か月半ほど前。

 風見の奥さんと名乗る方から私宛てに店に電話が入りました。いや…最初は名乗ってはなかったです。風見、とだけ言われたので普通のお客さんかと思って出たら、風見の奥さんでした」

「……」

 登は何も言わず、こちらを睨むほどに見つめている。

 息苦しさを感じたが、呼吸することで誤魔化した。

「夫のシフトを教えて欲しい、と言われたので、時間もそのまま伝えました。だけど、今日電話したことは夫には言わないでほしいと強く念を押されたので迷いましたが…。

 風見には、奥さんから電話があったことは、言いませんでした」

「うん」

 ほっとした瞬間、無意識に、頭を縦に振ってしまう。

 その瞬間、ブー、と登の胸ポケットの中が震えた。

「……ちょっと、失礼」

 言いながら、簡単に外に出て行ってしまう。

 関は、大きく息を吐いてから吸うと、もう一度写真に手を伸ばし、他の写真もよく見た。


 2人で食事に行っただけか……。封筒の中にもまだ何かあるのかもしれないが、このタイミングで中を覗くつもりはない。

 冷静になったと同時に怒りが昇る。

 風見の妻から電話が入った翌日、風見の身辺の状況を確認したことをもう一度頭の中に、強く思い出す。

 あの日は、風見が8時50分出社だったので、その少し前から駐車場で待ち伏せしていた。

 その日、車から降りて来る様子、などは何の不自然さもない。ただ、それは自宅から来たのか、どこかよその家から来たのかまでは分からなかった。

 そして17時50分に退社する。店の状況から、残業しなくても良い状態だった。途中の業務もどこも不自然なところはない。

 しかし、店長としての自分の勘より、妻の勘の方が遥かに優れていることは間違いなく、そのまま店長室まで呼んだ。

 ドアを閉めてもらい、風見の表情を隅々までチェックする。

 何かを隠していることは、明白だった。

 逆に、それが女性関係以外のことだったら嫌だなと思ったが、聞くしかない。

「最近、困っていることは、ない?」

 穏やかでもなく、叱るでもなく、ただこちらとしても、どう処理しなければいけないのか分からないので、無心で聞いた。

 すると風見は、硬直した後、少し震えはじめた。

 これは、相当なことを抱えている…。こちらの方が怖くなるくらいだった。

「こ……」

 汗が額から吹き出していた。

「こ、困っていること、ですか」

 ないわけがない。

「うん……。風見さん的に困っているだけじゃなくて、周りが困っていること、も含めて」

 明らかに目が泳いでいる。心当たりがあるようだ。

「その」

「うん……」

 言うつもりはあるようだ。

「し…その……」

 し………。

「だ、誰から聞いたんですか?」

「……」

 冷ややかに見返した。すぐに風見は目を逸らす。

「リークされるようなことで困っているの?」

「い、いや、そういうわけじゃ」

 手で額の汗を拭う。不倫相手が既婚者ではないかと直感した。

「い、いやその。僕はもう、離婚届を出していますし」

「うん」

 妻が納得してないのか…。

 話のおおよそが見えた関は、力を抜いた。

「噂になっているんですか?」

「それは噂になるようなことなの?」

 聞き返してやる。

「………その……」

「………」

「その、……。確かに、妻がいる時から僕の気持ちはそうでしたが、それを行動にうつしてはいません。それは、離婚届けを出した後のことです」

 下らない。

「相手は既婚者?」

 ずばり聞いた。

「違います、独身です」

 そこははっきりと自信を持って言った。随分、自信たっぷりだった。

「ということは、離婚届がきちんと役所に出されているのなら、なんら問題はないように思われる」

 含んだ物言いをしたことに気付いている風見は、テーブルの一点を見つめた。

「ただ、これが大きく広まって、仕事にならないような事態になれば、つまりカウンターの女性陣から嫌煙されて上司の務めが果たせないようなことがあれば、ここで仕事をしていくことはできないよ」

「分かっています」

 分かってないからこんなことになっているんだろうと思う。

 相手は独身。まさか……店内の人間じゃないだろうなと予感が走る。

「相手はまさか、カウンター内の女性じゃないよね?」

 風見の心臓の音が聞こえたような気がした。それくらい、目を見開き、ビクリと身体を動かした。

「ちっ、ちち、違います!!」

 その声だけが空しく響く。

「……それならいいけどね」

 小さく、そう呟いて、椅子を座り替え、パソコンの前に腰かけた。

 これ以上は時間の無駄だと思った。

 その後すぐに相手が判明した。

 そのつもりで見てみると、2人の視線…いや、神条の視線は常に風見を追いかけていた。

 社を代表するほどの美人。しかも、元秘書。秘め事にはもってこいの相手だったというわけだ。

 だから嫌だったんだと心底思った。それは、予測の範囲内であり、それだけはしないで欲しいとわざわざ願っていたことだった。

 つと、登が帰って来る。

 関は姿勢を正した。

「えっと、風見はなんて?」

「…奥さんから電話があった翌日、本人に聞いたら離婚届は自分は出したつもりだ。その後に独身女性と親密な関係になった、ということだったので、それが公になったらここで仕事はできないと言いました」

「神条のことは?」

「その場では言いませんでした。その後よく見てみると、風見は気を付けているようでしたが、神条の方が積極的に…といっても、視線で追う程度ですが。だから周囲は気付いていないと思います」

「で」

 唐突に話題が変わった。

「この写真は誰が撮ったと思う?」

「……」

 言われてみればそうだった。携帯か、カメラか。最近は携帯も性能が良いので、写真にして引き延ばしてもその差は判別しかねる。

 そうなれば、撮影した人物も分かりかねる……。

「奥さんですか?」 

 というか、それ以外に誰がこんなことをする?

「ならよかったんだけどね。神条の父親」

「ち、父親ですか!?」

 思いもよらぬ名前に、登を強く見つめた。

「正確には、父親が雇った人物。興信所か探偵か、何かは知らないけどね」

「父親が、これをここに持って来たんですか!?」

 これは、度を越したパターンだ。

「元々神条がここに入社したのは、まあ、一般的な試験方法で受かったんだけど、後から神条の父親と社長が知り合いだったことが分かってね。

 父親が何かと社長に愛想を振りまいていたそうだ。

 それでこれだからね。愛娘が、不倫…不倫に巻き込まれた、という言い方をされたようだ」

「ど、どうするんですか?」

 どうもしようがない。そもそも、25も過ぎた娘が会社の男と不倫しているからといって…父親が出る幕などないだろうし、直接娘に言えばいい。

「風見は即異動。地方の倉庫の平だ。しかし、神条はそのまま。カウンターが騒いでいなくて本当に良かったよ。騒いでいたとしても、神条の異動は難しかったと思う」

 登も手を焼いているということが分かったのでほっとした。

「しかし、神条は本社に戻すのが一番だ。今回はどちらからどうしたのかは分からないが、トラブルの目になる」

「私もそんな気がします」

 これ以上店で抱えきれる人物ではない。

「そこで君にそれを頼みたいと思う」

 降って沸いたような一言を、笑いながらさらりと言う登に、思わず鋭い目を向けてしまう。

「それを……とは?」

 慎重にならざるを得ない。

「神条が本社に戻るような気にさせるということ」

 それは無理だと思ったが、

「そもそも、何故店に降りてきたんですか?」

 今なら答えてくれるだろう。

「神条の意思。それだけだ。秘書業務が退屈になったのかもしれない」

 それが本当なのかどうかは、本人の口から聞くしかない。

 だが……。

 神条に寄り添った上で本社に戻るよう勧める事などできるだろうか。

 自分が出来なかったとして、それを桜井がやりとおせるだろうか。

「……難しいと思います」

 というか、おそらくできない。

「なら他の人ならできる?」

 あぁ、本社の人間というのはそういう言い方でもって、人を駒のように使うのだ。

 その一言にふっと力が抜けた関は、肩の力を抜いて答えた。

「誰ができるのかは分かりません。

 でも、私には無理だと思いますし、カウンターの責任者、桜井にも無理だと思います。
 他にできる人がいるというのなら、その人と代わってもなんら問題ありません」

 心底そう思ったので素直に言い切った。

 今、東都の店長職を解かれ、誰か他の者が成り代わってできるのなら、そうすれば良いと思えるほどの難問だった。

 相手は不倫もいとわぬ美人女だ。

 何かの拍子でこちらに気を持たれると、今度は自分が地方行きになる。

「随分部下を大事にするようになったね」

 それは、桜井のことかと思ったが、議論に疲れてきて、なんとも返事をすることができないし、頭もよく回らない。

「じゃあ、現状維持、ということで」

 登の体力はまだあり、そのキレはまだ続いていた。

 おそらくこれは、湊以上に手ごわい相手になったなと、どっと疲労を感じながらただ顔を縦に振った。
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