この人だけは絶対に落とせない
「桜井」

 自動ドアを通り抜けた途端、背後から名前を呼ばれて振り返った。名前を呼び捨てにされることはないので、その声の主に驚き、足が動かずまじまじと見つめるしかない。それくらい、呼び捨てにされたことが衝撃的すぎて、返事をすることも忘れていた。

「今すぐ店長室来て」

 遅れて来た関が、上着を腕にかけ、バックを持ったままで横を通り抜けていく。

 その顔は、随分思い詰めていた。

 今日は急遽本社に行ってから出社する、ということは、朝のミーティングで全員周知の事実だ。こういうことは、特にないが、あったとしても不思議ではないので、なんだろうね、ということで気にはしていなかった。

 しかし、この顔はただ事ではない。

 桜井は、言われた通り静かに背後につこうとしたが、一旦カウンターに戻ってちょっと店長に呼ばれたからトランシーバーを外す、店長室にいるから、と平社員に告げてすぐに離れた。

 走って行くと、既に関は店長室に入り、パソコンを立ち上げているところだった。

「……」

 黙って、ドアを閉め、前回と同じテーブルを挟んだ下座のパイプ椅子に腰かける。

「……」

 それでも関は上座には腰かけず、パソコン用の椅子に座り、立ち上がる画面をじっと見ていた。

「課題は分かった?」

 今ここでそれを聞かれるとは思っていなかったので、自分には努力が足りなかったという後悔が先に立った。

「分かったの?」

 こちらを見ていない上に、口調が厳しい。

「分かりませんでした。すみません……」

 歯を食いしばった。自分は、まだまだだと強く感じた。

「あー、そう……」

 何故か関は、はーっと息を吐き、頭を垂れてからも更に息を吐き切った。

 どちらかというと、ほっとしたように見える。どういうことだと、桜井はただその様子を見入った。

「分からなかったか……」

 次は、右肘をデスクの上乗せ、掌の上に頭を乗せた。

 顔は無表情だ。声に抑揚もない。

「……」

 何と言っていいのか、謝るべきなのかどうかも分からず、ただ様子を見守る。

「はぁあ……」

 そのまま、立ち上がったパソコンにログインパスワードを打ち込み、前を向いてしまう。

 一体、何がどうしたんだと、驚きも隠せず、ただただ黙って見つめた。

「ああー……」

 なんだか、声は溜息混じりで疲れているようだ。

 それでも、目は未読メールの件名を確認している。今日は特に急ぎのものはなかったはずだ。

 もう1つパスワードを打ち込み、店長用のメールも確認している。そこも、何もなかったのか、ようやく関はこちらを向いた。

「はぁあ」

 若干口角を上げながらも微妙な表情をして溜息をついたので、どうしたものかと、硬直して声も出なかった。頭でも打ったか。

「はあ。ちょっと待ってね」

 今度はなにやら、バックの中を探り出した。と思ったら、ただのボトルコーヒーが出てきた。

 半分ほど飲んだらしい飲みかけのキャップを捻り、一口飲んでから、ようやく関は落ち着いた様子で、上座に腰かけた。

「………どうしたんですか?」

 真顔で聞いた。

「トラブル」

 関は、テーブルを見つめたまま言った。

 やはり、何かあったのは間違いないようだ。

「僕が出した課題。あれ、どれくらい考えてた?」

 いつもの関に戻ったのが分かる。顔がいつもと同じになった。

 桜井も姿勢を正す。

「随分…考えていました。言われてからずっと…。

 最初は、カウンターの人の声を色々…盗み聞きみたいにしてて、それで、何も分からなかったので、売り場の人の話にも注意してたんですけど。分からなくて。

 市瀬副店長が何か知っているかもしれないと思ったんですけど、話してみたら、きっとこの人は何か知ってても言わないだろうなと思って諦めて。

 カウンターの人と直接コミュニケーションをはかって情報を集めていきました。でも、これといって、異動がかかるような何かを掴むことはできなかったです」

「……そのコミュニケーションでは異動がかかるようなこと以外は何か言ってた?」

 顔は普通だ、いつも通り。

「いえ…ご報告するようなことは…」

 神条に彼氏がいる話などしても仕方ないし、それは報告しない方がいいはずだ。きっと、市瀬なら言わない。そう察したが、逆に

「報告しなければならないかどうかは、僕が決める」

 突然、口調が厳しくなったので、慌てて、

「その…。今まで私が知らなかった…カウンターの中での些細なトラブル…何年も前の話も聞くことができました。でも、それが今の何かに繋がっているとは思えませんでしたし…」

「男女関係については?」

 問いを出してくれたので、ようやく、

「…神条さんが男性とお付き合いをしているという話を聞きましたけど…それは」

「相手は誰?」

 関は急いて聞いた。この言い方は非常に珍しいので、桜井も戸惑ったが、

「えっと、誰かという事は誰も知らないみたいだったんですけど、柊さんの勘…というか大筋の見方では、本社の方ではないかと」

「本社の、誰?」

 そんこなと聞いて、どうする。

「いや、そこまでは…名前を聞いても、分からないだろうし…と、柊さんも言ってました。けど……この先は完全に憶測なんですけど」

「言って」

 容赦しない。一体どうした。

「社長に可愛がられていた神条さんが、本社の人と付き合ったから店に落とされたんじゃないかって。だから…女性陣は神条さんを可愛そうな感じでみていると思います、多分」

 こんなことを報告するのもおかしいと、言いながら感じたので、

「でもこれは、完全に憶測で、全くの噂話かもしれませんし…だから、ご報告するようなことではないと思うんですが」

 言った後もやはり、非常に情けない報告だと思った。

 しかし、関は次の瞬間、眉間に皴を寄せて放った。

「神条の相手は、風見副部門長だよ」

「……えーーーーーー!?!?」

 目と口をあんぐり開いた。無意識に、両腕がホールドアップの状態だった。

「………」

 関は、怖いくらいにこちらを見つめている。

「……」

 それに気づいた桜井は、さっと腕を降ろした。

「気付いてなかった? 誰も」

「誰も気付いてないですよ!そんっな……」

「本当に、誰も?」

 ずいと、身を乗り出してきたが、それだけは言い切れる。

「誰も……だって、そんな事を擁護する人は、カウンターにはいません!」

 それは言い切れた。恰好の噂ネタだし、黙っていられるはずがない。

「でも……それ…ほんとですか?」

 嘘なはずはなかったが、念の為にもう一度聞かずにはいられなかった。

「ほんと。今本社で写真も見てきた」

「写真?」

 桜井は続けて目を見開いた。

「写真なんか、あるんですか?」

「神条の父親が撮った写真だそうだ。といっても、人に頼んで撮ったものらしいけどね」

「ち、ちちおやー!?」

 関は、落ち着き、桜井だけが随分取り乱している。

「え、嘘。ちょっと、色々待って下さい!」

 と言って、手をテーブルの上に乗せたが、関は待たず、

「風見にはすぐに地方の倉庫への異動が出る。午後からは風見が本社に呼ばれた」

「と……」

 言葉が出ない。

「しかし、神条はそのままだ。だから、今の彼氏説がどうなるかな…」

 そんな説が何故気になるのか、とりあえず放置して、

「え、風見さんって結婚してますよね?離婚したんですか?」

 関が何も言わないので、今更不倫の確認をすることになる。

「離婚した、と言っている…が、届がきちんと出されているかどうかは分からない曖昧な状態だ」

「………えー」

 口元に手を当てて、関の手を見る。

「神条のことはどう思う?」

「どうって……」

 手をテーブルに戻して、今度は顔を見た。

「まさか不倫なんかするような人だとは思いもしませんでしたけど。しかも、風見副店長……」

 悪くはないが、決していいとは言えない。それなら、関の方がよっぽど良かったはずだ。

「まあ、するような人だということだ。だが、異動にはならない」

「………」

 桜井は、眉間に皴を寄せた。神条の店内での荒れた行動を取り締まることは、自分には出来ないんじゃないかと一気に不安が募る。

「まあ、気負いしないで」

 あっけなく、関は笑った。

 そう言われるとは思っていなかったので、驚いて顔を上げる。

「今も、不倫のことをばらさないようにするだけの常識は持っているし。後は、それがバレないように穏便にしていけばいい」

 あぁ、そういうことかと、桜井はようやく本題を見つけて肩の力を抜いた。

 すぐに関は椅子を替えてパソコンの前に腰かける。話は済んだようだ。

「………」

「………」

 しばし、2人は無言になる。

 関も随分疲れたのか、まだ座っていても何も言わない。

 副部門長という命を受けながら、部下と不倫などと何をやっているんだと怒りが沸いてきた桜井は、ただ関の背中を見つめる。

「ああー、疲れた」

 言いながら、コーヒーのキャップを捻る。

 その気持ちが本当によく理解できたので、

「私も疲れました。……仕事を真面目にするのって疲れますね」

 それに関が同意するかと思ったが、逆に後ろを振り返り、目を合せると、

「仕事の事ばっかり考えるといけないよ」

 いつもの顔、いつもの口調だ。

「それ以外のことを考えるのも必要」

と、続けてすぐ、前を向いた。
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