この人だけは絶対に落とせない
 仕事以外のこと……。

 関の言葉だけを追うように、今度は仕事以外のことが頭を回りはじめる。

 仕事以外のこと、というのは、シフトで決められた仕事の時間以外の時間の使い方のことだ。

 つまり、休みの日に趣味を持ってリフレッシュしておくことも必要、ということ。

「………」

 いつの間にか29歳になってしまった桜井は、来年30までに結婚したいという気持ちを持っていないことに安心してよいのやら、なにやら分からない気持ちになってしまっていた。

 久川に結婚したいと言われたのがついこの間。だが、あの時、あのタイミングで、あの距離感での結婚は到底考えられなかった。

 たが、仕事のことばかり考えていなかったとしたら、どうだろう。

 結婚していた…のだろうか…。

 いや、そんなことはない。あれはあれで、気が合わない部分が多かったのだ。

 それよりも、今、スタッフルームで菓子パンをかじっていても気になるのは、背後にいる市瀬の存在だった。

 それは、考えてはいけないことだと思っていたが、関に「仕事以外のことも考える」と言われてから、こういう気持ちを持ってもよいものかもしれない、と今更ながら思い始めていた。

 久川の時と違うのは、明らかに、心地が良いということ。

 もっと話がしたい、理解がしたい、理解されたいし、一緒に仕事をしたい…。

 でもそれを仕事を絡めてしまうと、つい、必要もないのに市瀬に相談したり、話しかけたりしてしまう。

 ということは、社内で男性を相手にしなければいい。それはもちろん最初からそのつもりだったのだが、市瀬だけは、今までの男性とは全く違うものを感じずにはいれられなかった。

 あれから知ったのだが、筋トレが趣味で体型を維持しているということ。

 お昼は必ず、会社で注文する弁当。遅出の時はコンビニ。

 ブラックの缶コーヒーは必ず一日一本買うし、酒もたばこも吸う。

 車はマツダの乗用車の紺。

 家庭環境は不明、だけど1人暮らし。多分働いている子供がいる。

 柳原副店長が異動したことにより、他店店長から栄転異動。

 入社15年。元は大手メーカーからの転職。

 男性からも女性からも、お客からも従業員からも愛されている、という表現が正しい男。

 今も後ろで若い男性社員一緒に、携帯ゲームをして盛り上がっている。周囲には、女性社員もいるし、市瀬の周りにはいつも人がいる。

 気にし始めてようやく分かったことだが、この人は人を大切にする人なんだと思った。

 少し前、情報をリークしてください、と言った自分は、市瀬のことを何も知らず手の内を明かしてしまっており、リサーチ不足だったことは否めなかった。副店長だからといって、自分と同じような考えをしているわけではない。

 そんな市瀬は絶対に社内恋愛などしない、自信を持って言い切れる。

 まず、独り暮らしだからといって、離婚しているとは限らない。

 この前食事でも、と誘ったのはそういう気質だからだろうし、社員と食事に行くことはよくあることなのかもしれない……。

 ふと、行ってみたい。と思った。

 市瀬と食事に行ってみたい。

 どんな話をするのか聞いてみたい。

 何を聞かれるのか想像もつかない。

「……」

 一度食事に誘われているので、同じ手法でいけばもう一度誘われるはずだ。相手がもし事務室、と言ってきたら今日は食事でとこちらから誘えばいい。

 良い流れを思いついた桜井は、1人、笑顔を噛みしめながら、いつどこで、どのように話しかけようか、頭をフルに回転させながら、食事を終え、重要書類閲覧室に向かう。

 部屋に入ると、今まさにファイルを手にとった市瀬がいた。誰もいない、良いチャンスだ!

「………この前は食事をお断りしてすみませんでした」

 ある意味自然な言葉でそう出しながら、直角になるように腰かけた。

「………俺、誘った?」

 市瀬は眉間に深く皴を寄せて乗り出して聞いたが、わざとでもなんでもない。単に忘れているだけだ。 

「私が相談があるから、と言ったらじゃあ食事でも、って言ってくれたんですけど、私が事務室でいいですって言ったくだりで…」

「ああ! ああ…いやー、あれもさすがだと思ったね」

「どこがですか」

 市瀬が笑顔なので、つられて笑った。

 しかも、続きは何も言わない。今度は真剣に書類を読んでいる。

 そうか、ここはそういう場所だったんだ……。

 ダメだな……やっぱり、仕事とそれ以外を絡めないのは難しい。

 さあ、仕事をしよう、とページを捲った時、

「でも、食事に行って話すより、ああやって事務室で話した方が手短で用件が頭にはいるなと思った」

 突如として言い出したので、再び頭を切り替え、

「私は、逆に食事に行った方が良かったと思いましたけど」

「え、そう?」

 目が合う。だとしても、どうということのない、いつもの顔でいなければいけない。

「はい……あの後、事務室で話した事はきっと間違いだったな、と思ったので。もし、違う場所の違う雰囲気だったら、違うことを感じてあの話はしなかったかもしれない、と思いました」

「……ふーん……」

 再び、資料に目を落としている。

 考えているのか、聞いていなかったのか。

 しばらくして市瀬は立ち上がると、

「じゃあまた今度、食事でも」

 さらりと言う。だが、桜井はそれに負けず、

「…今日行きませんか?」

 市瀬は分かりやすく驚いた。

「今日!?…今日……まあいいけど。何か、話したいことがあるの?」

 本当に何かあれば、話したいことを話すのに食事の方法を取る方が難しいと考えている桜井は、

「まあ、ある意味」

と、濁す。

 何かある前に話をして、どんな人か分かっておいた方がいい、という意味だった。

「怖いなあ」

 言いながら、市瀬は張り出されたシフト表の前まで移動すると、

「おー、俺明日休みか」

 そんな一番大切なこと、今確認したのかと驚きながら、見つめる。

「俺は21時、桜井さんも21時。おお、シフト確認してた?」

 あからさまに聞いてくるので、

「いや、してません」

 笑って顔を伏せた。もちろん、スタッフルームに張り出されていたシフト表は確認済みだ。

「いいよ、場所は駅前の焼き鳥でいい? 俺あそこスキなんだよねー」

 簡単に決まった。飲む段取りには慣れているようだ。

「あ、はい。じゃあ、えっと。私、駅前は近いので家に車置いてから歩いて行きます」

「家どのあたり?」

「焼き鳥ってコンビニの前ですよね」

「そうそう」

「歩いて5分くらいなので、行けます」

「迎えに行くよ」

 随分サービスが良いが、少し怖くなったので、

「大丈夫です。明るい道ですし」

と、あっさりと断ってしまった。
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