この人だけは絶対に落とせない
 緋川 貴美(ひかわ きみ)はその日、売上ナンバーワンの伊勢谷(いせや)からもらったファミレスの10%引き券を、そのまま期限切れで捨ててしまうか、それとも正直に使うべきか迷いながらスマホのケースの隙間にしまい込んでいた。

 たかがファミレスの割引券しかもたった10%引き。だがそれを伊勢谷はいかにも貴重そうに譲ってくれたので、後できちんと使ったと報告するべきではないかと、そんな義務感が頭から離れずにいた。

 どちらかといわなくても、ファミレスで1人1万円も食べそうな伊勢谷の方が必要な気がしたが、わざわざ期限はまだ2週間あるからと手渡してくれたので、事に迷う。

 たかがファミレス、たかが10%引き。

 ファミレスは勤務店舗の近くだし、もし、行くタイミングがあったらもちろん使うつもりだが、そうそうファミレスに行く年でもなくなってしまった27歳の緋川は、半分誰かにあげるか、それとも誰かを誘うかを考えていた。

 ふと、そんな折、休憩中に目の前に座ったのは、中津川(なかつがわ)主任である。今日は手作り弁当なのか、綺麗にテーブルの上に広げ、ファミレスとは無縁の様しか感じない。

 だがそんな中津川でもファミレスくらい行くだろうと、一緒に行ってくれるだろうと、声をかけた。

 ら、簡単にその日に行くことになったのである。

 今まで、仕事の中ではよく喋る方だし、お互いよく仕事の事は分かり合い、知り合っているが、プライベートの時間を一緒に過ごしたことはなかったので、少し緊張した。

 18時上がりの緋川が先に出て一時間半待つことになり、それを中津川は随分申し訳なさそうだったが、丁度買い物があったので、とそのまま約束をすることにした。

 結局退社してからは、買い物が面倒になり、友達に長文メールを返すことを思い出したので、そのままファミレスの駐車場で待機することにする。

 中津川 沙依吏(なかつがわ さいり)は店の中ではよく目を引く存在だった。まず外見が綺麗で、その上仕事も真面目で几帳面、耳にはいつも何かしらのピアスをさりげなくしており、それが本当に女性らしい。確か今年30くらいのはずだが、噂では長年付き合っている既婚の彼氏がいるらしく、いかにもそれらしかった。一言で言えば、愛人体質っぽい美しい女性だった。

 しかし、まさか、このファミレスでいきなり結婚の話などはできまい。自分も一度婚約に失敗しているし、そこはまあ、影がある女性同士として、さらりと仕事の話でもすればいいか……ファミレスで……?

 手持無沙汰になり、オンラインショッピングで新しいバックを買おうと思いながら画面が途中までになっているのに気付いてそのまましばらく見入る。

 その後、やっぱり実物を見てから別の店で買おう、そういえば、長文メール返してないや、とふと顔を上げると、黒の乗用車が1つ駐車スペースを空けた隣にエンジンをかけたまま停車しているのに気付いた。

 いや、壁に突っ込む形でエンジンをかけた車がいたのは、最初からだ。緋川はバックで停車したので、運転手の顔は最初から見ていない。時計を見ると既に30分も経過している。確かに車内にとじこもっていると、少し暑い気はするが、そこまで長居するのなら、窓を開ければいいのに、アイドリングはよくないぞ、と何気なく運転手席を見た。

「え!?」

 自分の声が車内に響いた気がして、慌ててシートに隠れた。

 辺りは薄暗いし、しかも車の窓越しだし、似た人かもしれないし。

 いやそれでも、見間違える……だろうか……。

「……」


 今度は車をよく見る。

 この位置からではマークが見えないが、確かあの人は黒い車に乗っていた。それも、昨日の事だ。

 ガチャリ、と助手席側のドアが開いたので、思い切りシートに背をつけて、ダッシュボードにあった、マックの割引チラシを広げて顔を隠した。

 女だ!

 女はベージュのコートをひらひらさせながら、駆け足でファミレスに入って行こうとしている。

 忘れ物でも思い出したのだろうか。

 いや……、車がバックし始めた。

 緋川はもう一度、チラシで顔を隠しながらも、

「………」

 運転手が営業部の湊であることをしっかりと確認した。しかも、ネクタイが昨日のままだ。輸入物の紫の……。
 
 しかも間違いない、レクサスだ。

 ということは、忘れ物を思い出した彼女を入口で拾って乗せて帰る気だ。と思ったのだが、予想は外れ、湊はそのまま店の駐車場から簡単に出て行ってしまう。

「………」

 緋川はすぐさまチラシを助手席に投げ捨て、バックを手に女の後を追うように、駆け足で店内に入った。


 店内は平日の18時半すぎで、それほど混んではいない。

 禁煙席ですぐに女を見つけた緋川は、店員が「お好きな席にどうぞ」と言い終わるのを前に、その席目がけて歩き始めた。

「……」

 角の端の4人掛けのソファ席にその女はこちらに背を向けて1人で座っている。

 その背を睨むように、すぐ後ろの席に座った。

 女はすでに注文したのかどうか、メニューなどは見ていない。あの短時間では注文する余裕はなかっただろうし、今からまた別の人とでも会うのだろうか…。ひょっとして、浮気現場だったりして!?

 と、そこまで考えて自分で驚き、しかも面白がってしまうわけだが、店員が隣を通った事をきっかけに、このまま一時間も何も注文せずに中津川を待つわけにはいかないと、ようやくメニューを広げる。

「あの、急いでるんで、早めにお願いします」

 女が近くに来た店員にそう急かした。

 ということは、既に注文した後でしかもすぐに食べてどこかに行こうというのである。

 女は30くらいか。過ぎているか。そんなに慌ててファミレスで食事をする必要が、しかも、彼氏と別れた直後に、あるのだろうかと大きく疑問が浮かんだ。

 ということは、彼氏じゃないか……。

 その方が逆にしっくりくる。

 自分が大慌てでこんなところまで尾行してきたのが半分ばからしくなったが、しかし少なからず、昨日と同じ服の湊には何かがあったはずだと必死でその予感を手繰らせ、頭を働かせる。

「お待たせいたしました」

 こちらが頼んだ方が遅かったはずなのに、コーヒーとケーキセットだったせいか先にテーブルに並んだ。女はちらとこちらを見る。

 耳にはイヤリング。良さそうな薄手のコート。どう見てもデート衣装だ。

 まあ、普段からそういう服が好きだと言われたらそれまでだが。

 さて、ファミレスらしい貧素なケーキに目を向ける。いつもカフェやランチで写真を撮るのだが、ファミレスでは撮る必要がない、と思った瞬間、ひらめいた。

 あえて撮ろう。

 後姿からひょっとしたら誰なのか判明するかもしれないし。

 いや、今実際に姿を見ているのだから、後から写真だけ見ても分かるはずがないのだが。

 緋川は、少しスマホを持ち上げて、ギリギリ女の斜め横顔が映るようにシャッターを切る。うん、まあまあ顔は撮れている。

 そこで、スマホを置いて、ふとケーキにフォークを差して緋川は思った。

 下らないこと、してるなあ………。




「買い物できた?」

 それほど疲れた顔を見せない中津川は、微笑んでこちらを見ながら、対面して席に腰かけた。

「いえ…友達にメールすることを思い出したんで、ここにいました」

 女が出て行って一時間近く考えていた。あの話を中津川にするかどうか、写真を見せるかどうか。

「あそう、一時間半も待たせてごめんね。何か食べた?」

「ちょっとだけ…」

「どうする? ここでいい?」

「全然! まだお腹空いてますから、何か頼みましょう!」

 と、メニュー表をお互い手に取った。   

 さっきの写真……といっても、盗み撮りだけに、趣味が悪すぎて嫌なのだ。だがどうしても、女の事は気になる。ので、さり気なくこんな話からしてみる。

「あの、昨日湊部長が臨店して来られてましたよね」

「うん。みたいだね、私休みだったけど」

「あそっか…」

 じゃあネクタイの話は私の思い込みだと取られかねない。

「さっき何食べた?」

「あ、ケーキです。これ」

 ケーキだけの写真も撮ったのでそれを見せようとする。が手元が狂い、盗み撮りの写真が表示されてしまった。

「あ゛!」

「ん? あ、えっと」

 どうしたことか、彼女は目を必死に閉じ、こめかみを指差している。

「え……頭にきました?」

「えっと、ヤナさん、ヤナさん。本名なんだっけ」

「し、この人知ってるんですか!?!?」

「えっとね、えっとね」

 彼女はまだ目を閉じたまま半分笑っている。

「ちょっと待って下さい、社内じゃないですよね、その人」

「え、社内だよ」

 彼女はようやく目を開くと、きょとんとした顔でこちらを見た。

「嘘!? …待って下さい! 私が話すまで、待って下さい」

「…………」

 明らかに怪訝な顔をした彼女だが、それでもこちらの思いをちゃんと聞いてくれる。

「その人は、もしかして、結婚してますか?」

「うん」

「…………」

 今度は緋川が目を閉じた。そして、画面が暗くなったスマホをテーブルの上に置いて、

「うわー、私……」

 顔を両手で隠した。

「最悪な事したかもしれない」

「何?」

 彼女はようやく真剣な顔でこちらを見た。

「……その人、湊部長の車から出て来たんです。私の隣に車停めてて。長い間停まってました。少なくとも30分は停まってたと思います。
 で、女の人だけが出て来て…。湊部長はそのまま帰りました。で、湊部長は昨日と同じネクタイでした」

「………まさか、」

 声が驚いているので、まじまじと顔も見てみたかったが、隠し撮りが心に引っかかってそれができない。

「その後女の人の事が気になって、私この店に入ったんです。女の人はその向こうの席に座りました」

 彼女は後ろを振り返る。

「それで…、すぐに注文してめちゃくちゃ急いで食べて。でも半分くらい残して帰りました。帰りは自分の車を停めてあったみたいで……。
 ………あの……これって、不倫じゃありません?」

 言ってから後悔した。そういえば、彼女自身も不倫しているんだった!!!

「………、黙ってよう」

 彼女はいきなり息を殺して話はじめた。

「湊部長だよ? ……これ、バレたらすごい問題になる」

 緋川はそれを一旦心に収めて、

「……相手の人は結婚してるんですよね? …しかもどこかの店の人で……」

「…………この事、なかったことにしてくれる? お願い、写真も消去して」

 唐突に、不倫相手本人のようなことを言い始めたので驚いたが、ひょっとしたらそれくらいヤナさんと仲が良かったのかもしれない。

「……すみません……盗み撮りなんかして」

 緋川は正直に謝ると、そのまま消去ボタンを押した。自ら消さず、人に言われてから消したことに罪悪感も残ったが、全て消去したので幾分かはマシだ。

「誰にも送っていません。私も、盗み撮りしたことを少し後悔していました。でもまさか、そんな事だとは思わなかったから…」

「………、いや、いいの……」

 彼女は必至で何かを考えている。

 今日は重いディナーになりそうだ。何が10%オフだと思いながら、緋川は溜息をついた。
 
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