偽装夫婦~御曹司のかりそめ妻への独占欲が止まらない~
「あのころの僕は自分のしている仕事に迷いをもっていた。入社してしばらくするまでは、川久保製薬で働くことが当然だと思っていた。けれどしばらく働いてみると人助けの為なのか、金儲けのためなのか……利益を追求することに疲れていたんだ」
医薬品は健康を維持し、命を救うものだ。医療の現場にはなくてはならないもの。
けれどその研究と開発には莫大な時間とお金がかかる。当然会社としては利益をあげなくてはならない。
「なんだか、人の命をお金に換算しているような気がした。考えが青いと言われればその通りなんだけれど」
尊さんなら、そういう考えを持つのも納得できた。そして自分が果たす使命との間の乖離に悩んでいることも想像できる。
「そんなときだった。偶然、三島紀念病院で君を見かけたのは」
ふっと、尊さんは表情を緩ませた。
「当時小児科に勤務していた君は、同僚の看護師とワクチンの話をしていた。覚えてる?」
「いいえ。ごめんなさい」
正直いって、誰とどんな会話をしたのか覚えていない。
「相手の看護師が、我々製薬会社は高い薬ばかりを売るのに必死だと揶揄した。でも君は『多くの人を救う安いワクチンもお金がないと作れませんよね』って」
尊さんは、そこで言葉を区切るとわたしをまっすぐに見据えた。
「君は言ったんだ。『値段の高い安いではなく、必要な人に必要な量の安全な薬を届けようとしているだけですよ、きっと』ってね。その言葉にまるで許されたような気がした。君の言葉で自分の使命を覚悟することができた」
だまって話を聞くわたしの頭を彼が優しく撫でた。
「今の僕がいるのは、あのときの君の言葉のおかげだ」
「そんな……わたし、全然気がつかなくて」
「あたりまえだよ。今までだまっていたんだからね。その後僕にぶつかった白衣の天使は時計だけ残して姿を消してしまった」
わたしが小児科に在席していたのはほんのわずかの期間だった。尊さんはあの日は他の営業担当の代わりとして三島紀念病院に来ていたので、そこでふたりの縁は切れてしまったのだ。