偽装夫婦~御曹司のかりそめ妻への独占欲が止まらない~
 部屋に、コーヒーの香りが広がる。鼻腔をくすぐる深みのある芳醇な香り。

 尊さんが時々淹れてくれるコーヒー。それをお供に、その週にあった出来事をじっくりと話すのが、金曜日の夜のわたしたち、かりそめ夫婦の約束事のひとつになっていた。

 わたしはさっそく今週の話を、尊さんに報告する。

「小さなクリニックって聞いていたのに、患者さんも多くて初日はやっていけるのか不安でした。受付とか事務ははじめてだったので」

 わたしは少しお行儀が悪いけれど、ソファの上で膝を抱えて座っていた。

 簡易キッチンに立つ尊さんはちょっと驚いた様子で、ハンドドリップの手を止めた。

「そんな仕事まで? 看護師として採用されたんだよね? っと、僕が言える立場ではないけど」

 川久保家での仕事も、看護師として採用されたはずだが、実際は自分で何でもできるおばあ様の話し相手くらいしかしていない。ここでの仕事のメインが〝かりそめの妻〟になりつつあることを、言っているのだ。

 ちょっとばつが悪そうな尊さんを見て、少し笑ってしまった。

「受付の人が立て込んでいると、ほうっておけないじゃないですか。ついつい……ね」

 そう肩をすぼめたわたし見て、尊さんは「那夕子らしいね」と、あきれ顔を見せ笑った。

 わたしが、成り行きで中村先生のクリニックの臨時看護師をすることになった事情を尊さんに伝えたとき、彼は『やりたいなら、やればいいよ。応援する』と言ってくれた。

 実は中村先生に誘われたとき、心の奥底では看護師の仕事をしたいとすこしばかり思っていた。だけどすでに雇われの身であるわたしは、その気持ちをわがままだと抑えつけていた。
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