さよなら、センセイ
終業式も無事に終わり、校舎から生徒の姿はなくなった。
この日は、教職員も忘年会を予定していた。既にほとんどの教職員が迎えに来たバスに乗って会場へと向かっていた。
恵は、車通勤のうえ、忘年会会場も実家近くだという事で、校長と共に最後まで学校に残り、夜間警備の担当者と申し送りをすることになっていた。
校長は、雑務があると、校長室に。
恵は、夜間警備の担当者と申し送りをするまで、校舎内を見回る。
ひと気がなくなると、寒さが増すような気がした。早足で静かな校舎を見回る。
「よし。異常なし。
…あれ?」
その時、不意にどこからかピアノの音が聞こえた気がした。音楽教師は、先発組で忘年会に行っている。
まだ生徒が残っているようだ。
ピアノの音は、体育館から聞こえてくる。
恵は、体育館の入り口から声をかけた。
「こら、いつまで残ってるの?
せっかく冬休みなんだから、早く帰りなさい」
しかし、恵の声は、ピアノの音にかき消されて聞こえないようだ。
壇上の隅に置かれたピアノ本体に隠れてしまい、弾いている人物は見えない。
仕方なく恵は体育館の中に歩を進めた。
そして、はっと気づく。その美しく流れる旋律に思わず足を止めた。
流れる旋律は、《乙女の祈り》。
ピアノの音色が優しく奏でるその曲は、恵の記憶のページを開く。
初めての、出会い。
彼はまだ高校二年生だった。
あの頃の彼は、人生を達観したように毎日をただダラダラと無為に過ごしていた。
そんな思い出にふけっていると、曲がガラリと変わる。
軽やかで、高音と低音が追いかけっこしているような華やかな曲。
これも、恵が良く知っている曲だ。
あの夏、彼の為に繰り返し、繰り返し、アカペラで歌えるほど聞き込んだ曲。
生徒がこの2曲を弾くとは考えられない。
かといって、多忙な彼がこんな所に居るとも考えられない。
ピアノが最後の和音を奏でた。
「そこにいるのは、誰?」
恐る恐る、恵は声をかけた。
「乙女の祈りと、ハイド&シーク。
懐かしいだろ?
これが今の俺の原点」
ピアノの陰から現れたのは、やはり、ヒロ。
一瞬、高校の制服を着て、恵にピアノを弾いて聞かせてくれた昔のヒロと、姿が重なる。
だが、蛍光灯の灯りが照らすその姿は、立派な社会人だ。
ヒロは、もう、高校生ではない。
高級スーツにコート。放つ雰囲気もずっと大人になっていて、社長らしい威厳すらかんじる。
「原点?」
「そう。好きな音楽も、歌詞の意味が分かると何倍も楽しくなる。
メグミ先生が、それを教えてくれた。
その喜びを多くの人に知ってもらいたくて、今の会社を立ち上げたようなもんさ」