一筆恋々

【七月二十六日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓
静寂さんは雨はお好きですか?
わたしはかろやかな雨や日差しの中降る雨は、硝子が砕け落ちるようでとても好きです。

でも今日の夕立は容赦がありませんでしたね。
わたしは学校からもどっていて、雨戸を少し開けて外を見ていたのですが、あっという間に人の姿がなくなって、往来は雨音だけになりました。

雷が(ひらめ)く中を蛇の目をきつく握りしめて走って行く男性があって、その姿に静寂さんが重なって見えました。
雨にあたっていなければよいのですが。

来週から女学校は暑中休暇に入ります。
お休み中、裁縫の課題で浴衣を縫うことになり、家の行李(こうり)をひっくり返して使えそうなものを探していました。

すると昔兄の祝言の席で着た、朱にしろい牡丹模様の綸子(りんず)が出てきました。
これは久里原呉服店で見立てていただいたものなのです。
あのときはこのようなご縁があるとは思わず、気ままな客としてお世話になったのでした。

わたしは四人兄妹の末っ子です。
兄がふたりと、ふたつ上の姉があります。
そのため着物というと、新しく仕立ててもらうよりも姉の仕立て直しの方が多いのです。

姉は着物を大切に着ていましたので、わたしが着てもそれほど着古したものには見えません。
けれど、はなやかでいながら凛とした姉のために選んだ着物は、わたしにはどこかつれないのです。
着物の中に芯でも通っているかのように、わたしのかたちをしてくれないのです。

ですから、めずらしくわたしのために見立ててもらったこの綸子は、たまらなくうれしかったことを覚えています。
静寂さんのお家は、そんなうれしい気持ちの集まる場所なのですね。

わたしはお菓子づくりはときどき失敗しますけれど、裁縫の手は早い方なのです。
静寂さんはお抱えの職人さんがたくさんいらっしゃる呉服店の方ですから、わたしの出る幕などないかもしれませんが、いつかわたしの縫った浴衣も着ていただきたいです。
静寂さんにはどんな柄の浴衣が似合うのか、考えるだけでもたのしいのです。

夕立のあとは蚊が出ますので、いつもより早めに蚊取香を出しました。
煙が真っ直ぐ上に伸びていますから、今夜も風はなさそうです。

静寂さんも刺されませんよう、どうぞお気をつけくださいませ。
敬白


大正九年七月二十六日
春日井 手鞠
久里原 静寂様


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