一筆恋々

【八月十八日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓
わたしはいま、軽井沢にある英子爵の別荘からこのお手紙を書いています。
蘭姉さまも一緒だから、とお誘いいただいたのです。

こちらは気温も少し低いのですが、何より風があります。
歩いておりましてもパラソルが邪魔なくらい風がよく通っていました。

先日、久里原呉服店より静寂さんのお手紙とジョーゼット生地が届きました。
夏の楽しさを思わせる、あまくさわやかなラムネ瓶のようないろですね。
こんな素敵ないろ、わたしに似合うでしょうか。

もしかして、静寂さんが見立ててくださったのですか?
そうなら他のどんな生地より百層倍も千層倍もうれしいです。

風にさゆらぐ駒子さんのワンピースを見て、間に合うならわたしもラムネ瓶の単衣(ひとえ)を着て来たかったと残念に思いました。
あの軽やかな袖にこの風を受けたら、さぞ心地よかったろう、と思います。
袖がすれるたびにラムネのはじける涼しげな音が立ちそうです。
本当にありがとうございます。

今日は少し休んでから、ふたりで課題をしました。
わたしはお勉強があまり得意ではないので、駒子さんがいてくださってとても助かりました。

気候もよく、食べ物もおいしく、充実しています。

それなのにとても寂しい気持ちになるのです。

敷地が広いせいなのか、こちらの夜は東京のそれより森閑としています。
月の光が降る音まで聞こえそうなくらいです。

そこで時折風が彼方に抜けて行くと、泣きたくなるのです。
この風はきっと静寂さんのところまでは届かない。
先ほどわたしの上に降った夕立は、静寂さんの上には降っていないでしょう。

近くに住んでいるからと言っていつでもお会いできるわけではありませんが、ここに来てしまったら静寂さんがワッフルを届けてくださることも、わたしが自転車で会いに行くことも絶対にできないのです。
そう思うとじめじめと風のない東京が恋しくなります。

毎日胡瓜でもいい。
夜寝苦しくて構わないから、同じ雨に当たる距離にいたいです。

ところでご質問にありました恋文のことですが、わかりにくい書き方をしてしまい申し訳ありません。
(くだん)の恋文はわたしがいただいたものではなく、ある方がある女性に出したものを拝見しただけです。
いくら恋文に疎いわたしでも、あれはひどい出来だったと思います。
名誉のためお名前は伏せさせてくださいませ。

わたし自身は残念ながらいただいたことはありませんし、今後もないでしょう。

静寂さんは恋文を書いたり、受け取った経験はおありなのでしょうか。
知りたい気持ちはありますが、聞かないでおきます。
いやな気持ちになってしまうので。
かしこ


大正九年八月十八日
春日井 手鞠
久里原 静寂様


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