一筆恋々

【八月二十三日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓
気候のよいとろこにいると家が懐かしくなりましたのに、いざ締めつけられるような蒸し暑さに戻ると、やはり嫌なものです。
打ち水された土の上を歩くと、べったりとした湿気が太陽の熱を伴って、肌に巻きつくようでした。

今日は浅草の親戚の家にお土産をお届けに行ったのですが、満員の赤札を下げた電車は人いきれで息苦しかったです。
伺った先でいただいた麦湯が本当においしく感じました。

静寂さんは夏の疲れが出ていらっしゃいませんか?

このところ駒子さんの元気がなかったので、わたしを含む友人たちは心配していたのですが、軽井沢でようやくその理由を話してくれました。

暑中休暇に入る少し前のこと。
駒子さんは知人のおうちへ行かれたそうです。
ひとりで市電に乗って神田の方まで。

帰りの電車は空いていて、座席にもゆとりがありましたので、みんな少し間を空けて座っていたそうです。

それなのに、ひとりの男が駒子さんのすぐ隣に座りました。
電車の揺れに合わせて、駒子さんは離れましたが、運悪くいちばん端の席でした。
男は離れた以上に間を詰め、ぴったりと駒子さんにくっついてきたらしいのです。
駒子さんはよほど怖かったようで、それ以上詳しいことは教えてくれませんでした。
ただ、言葉の端々から想像すると、立って逃げることもできないくらい怖い思いをなさったようです。
話してくれたときでさえ、手が震えていました。

うつむいてぎゅうっと両手を握りしめていると、視界の外からふいに、男の腕を掴む人がありました。
学生服姿の男性だったそうです。
その学生さんは無言で男を引っ張って行き、何か言ってくれたようで、男は次の駅で降りて行ったということです。

駒子さんは立ってお礼を言いたかったらしいのですが、まだ恐怖の余韻がいろ濃くて、脚が動きません。
学生さんは「怖かったでしょう」「気にしなくていいので、そのままゆっくり休んでいてください」と言って、離れた席に座りました。
自分自身も男性だから、近づかないように気づかってくれたのでしょう。

降りる駅に着いて、駒子さんが振り返って会釈すると、学生さんも笑顔でうなずいてくれたそうです。

こんな話を駒子さんの許可を得て静寂さんにしましたのは、お願いがあるからです。
静寂さん、わたしと一緒にその学生さんを探してください。
駒子さんはどうしてもその方にお礼がしたいのですが、どこの誰とも知りません。
同じ時間に同じ市電に乗れば、見つけられるかもしれませんけれど、そこはやはり怖い思いをした記憶があたらしく、勇気が出ないのだそうです。
会いたい気持ちと怖い気持ちの板挟みで、駒子さんは悩んでいます。

ですから、わたしが代わりにその方を探したいと思います。
けれど、学生さんを見つけたとして、女のわたしがひとりで声を掛けることは躊躇われます。
駒子さん本人でもないので、相手の方も不審に思われるでしょう。

彼は静寂さんと同じ大学の方だと思うのです。
お知り合いとは限りませんが、少なくともわたしが突然話し掛けるよりも、静寂さんがいてくださった方が相手の方も安心なさるのではないでしょうか。

大学は九月に新学期が始まるのですよね。
学校が始まってから同じ時間帯の市電に乗ったら見つかりやすいと思うのです。

一週間がんばって、それで見つからなければ諦めます。
どうかお付き合いくださいませんか?

無理を承知でお願いいたします。
頓首


大正九年八月二十三日
春日井 手鞠
久里原 静寂様様様


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