一筆恋々

【九月十五日 手鞠より静寂への手紙】


静寂さん。
たくさんのお手紙を書きましたが、本当はいつも書けないことばかりです。

光の下でくりいろにも見える髪の毛が好きです。
ゆったりとやわらかな文字も好きです。
大きな爪も好きです。
伸びた背中も好きです。

わたしの言葉に困ったような、また呆れたようなため息をつくのに、結局は譲ってくださるやさしいところも好きです。
けれど本当に譲れないときの余地のない厳しい声も、少し怖いけれど好きです。

顔合わせの席で久里原さまが姉を引き合いに出して不満をおっしゃったときも、「私はこれが良縁と思っています」とご両親の言葉を遮ってくださいましたね。
むっつりと黙っていても、目が合わなくても、笑顔なんてなくても、静寂さんのやさしさはいつもまっすぐわたしに届きます。

菊田さんを探したときもそうです。
さりげなく、けれども常にわたしを気づかってくださっていたこと、わかっていました。
歩くときはわたしを日陰に置き、人混みでは盾になってくださいましたね。
ほんの小さな段差でさえわたしがつまずかないか気をつけながら、数歩ごとに振り返ってくださいました。
ぜんぶ気づいていたのに、気恥ずかしくてお礼のひとつも言えませんでした。

静寂さんのそんなお人柄は、はじめてお会いしたときから慕わしく思っていたのです。
ですからあのとき、お名前さえ存じ上げない殿方をわたしは手放しで信頼し、文字通り身を預けました。

自分ではままならないと思っていた結婚のお相手があなただとわかって、ただただうれしかった。
もしあなたがあのまま姉と結婚なさっていたらと想像すると身体がふるえます。

わたしたちは親同士が決めた仲です。
けれどもし他の道を選べるとしても、わたしはあなたを選びたいのです。
心を捧げるのはこの方しかいないとわたしが選んだ方なのです。

臆病なわたしは、余計なお手紙は出せてもかんたんな恋文ひとつ出すことができません。
このお手紙も出せません。
あさましいほどのこの気持ちを知られると、嫌われてしまいそうで怖いのです。

これから長い時間をかけて、少しずつわたしのことも好きになってもらえたらと願っています。


大正九年九月十五日
春日井 手鞠
久里原 静寂様
(未投函)


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