一筆恋々

【十月十九日 手鞠より静寂への手紙】


拝復
菊田さんに会われたのですね。
お変わりないようで何よりですが、駒子さんが落ち込んでいるので素直によろこべません。

先日、学校からの帰り道、駒子さんの肩に一匹の赤蜻蛉がふわりととまりました。
そのとたん、わっと泣き出してしまったのです。
「わたしも赤蜻蛉になりたい」と駒子さんは言います。
「赤蜻蛉なら、誰の目をはばかることなく、あの人の肩にとまっていられるのに」と。

静寂さんは「菊田さんは真面目な人で、その真面目さゆえに出来ないこと、捨てられない事情がある」とおっしゃいました。
駒子さんもそういう方です。
それゆえにふたりはぴったりと惹かれ合ったのでしょう。
そして力を尽くしたとて、どうにもならない事情があるのでしょう。

改めてわたしはご縁に恵まれたのだと感じています。
慕わしく思っていた方と偶然婚約できるなんて、そうそうあることではありませんから。
本来、恋の多くは叶わないものでしょう。

駒子さんの気持ちを軽くしてあげたいけれど、何もできません。
むしろこんな浮かれた立場ですから、余計に傷つけてしまうような気がしています。

静寂さんもおっしゃるように、菊田さんも駒子さんもご自身でお心を決める方でしょうから、見守るしかないのかもしれません。

今日の風はかなり冷たく、首筋から背中に冷気が抜けていくようでした。
季節の変わり目ですので、静寂さんも風邪など召されませぬよう、ご自愛くださいませ。
拝答


大正九年十月十九日
春日井 手鞠
久里原 静寂様


< 47 / 116 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop