一筆恋々

【十二月五日 手鞠より菜々子への手紙】


昨日、私は手についたクリームを断腸の思いで拭き取りましたのに、あっさり口に含んだ菜々子さんにはおどろかされました。

シュークリームはおいしいけれど、食べ方に悩んでいます。
気をつけて食べないと、思わぬところからクリームが逃れて、ひどいときには着物を汚してしまうので。
どう食べたらいいのか相談しようとしたら、菜々子さんはあふれるクリームで手が汚れるのにも頓着されず頬張っていたので、きれいに食べるのは諦めました。

それでもピアノに触れる前には、しつこいくらい入念に手を洗うのですね。
あなたのそういう一貫しているところ、不本意ながらとても好きです。

何より素敵だったのは、菜々子さんがお店のピアノを弾かせてもらったことです。
音楽の時間、何度か聞かせてもらいましたが、場所が変われば音も変わるように感じられました。
それとも菜々子さんの気持ちの変化でしょうか。

わたしは浅学で、シューマンも名前しか存じませんでしたけれど、きっともう忘れないと思います。
あなたが音楽の道へすすむことは正しい。
がんばってください。

駒子さんのことですけど、やっぱり菜々子さんも感じていたのですね。

お祝いに水を差すべきではないと思いましたし、何より駒子さん本人がいたので、昨日は言えませんでしたけど、ひとかさ小さく縮こまった感じがしますよね。

実は先週の土曜日、駒子さんのお家に寄らせていただいたのです。
わたしと姉と駒子さんと、三人で語らったあと、駒子さんは藤枝さんと音楽会に行くのだとおっしゃって着替えられました。
素敵な黒のワンピースでした。
控えめな光沢と曲線美は駒子さんを上品で華やかに見せているはずなのに、どこがどうと言うわけでなく、きれいに見えなかったのです。
これから婚約者に会うというのに。

少し前は見慣れた縮緬と海老茶袴でも、薫るようなうつくしさがありました。
襟の合わせ目なんか、ことにきれいで。

想いを寄せる菊田さんと、否応なしに決められた藤枝さんを、同じ気持ちで見られないのは当然としても、なぜだか見ているわたしが不安になりました。
生き生きとピアノに触れる菜々子さんを見たから、余計にそう感じたのかもしれません。
あまいものには無節操、と揶揄されたほどの駒子さんが、シュークリームを半分も残していたことも気になりました。

姉のように恋をして結婚する人も、菜々子さんのように職業婦人を目指す方も少数です。
たいていは決められたお相手と結婚していきます。
わたしだってそうです。

恋を知っている分、駒子さんは気落ちするでしょうけれど、親の決めた相手だからと言って必ず不幸になるわけではないので、早く元気になって欲しいと思います。
菊田さんへの想いとは違っても、藤枝さんとの間に愛情が芽生えることを祈ります。


大正九年十二月五日
手鞠
菜々子様


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