私の中におっさん(魔王)がいる。

 * * *


 坂を下り終わると、湖が広がっている。
 最初にこの森に入った時は、ここに突き当たって獣道へ進んだけど、私は何故か湖のほとりにいた。

 前に見たときは、大きな湖だなって思っただけだったけど、夜に見た湖は幻想的で美しかった。青白いと言っても良いくらいの輝く銀色の月が、湖面に反射してとてもきれい。湖を囲う森は真っ黒で不気味だけど、湖に映るとまるで絵のようだった。現実の世界にいる気がしないくらい。

 しばらく見惚れていると移動する気が失せて、私はその場に座り込んだ。踏んだ草や土が冷たい。白い息に導かれるように空を見上げると、見たことのない景色が広がっている。

 無数の星々の連なりが、夜景なんて目じゃないほど輝いている。そして、少し欠け始めているのか、数日で満月になるのか、そんな状態の大きな月。

(きっと、ブルームーンってこんな色の月のことをいうんだな)

 見たことのない月の色。見たことのないミルキーウェイ。そういえば、月はいつ見ても大きい。

(空から落ちた日も大きかったっけ……)

 もう随分昔のような気がする。この世界に来て、約一ヶ月。一ヶ月で、その人間の何がわかるって言うんだろう。私は、彼らの何をわかった気でいたんだろう。
 一体何を信じたっていうんだろう。
 
 きっと寄る辺がなかったから、彼らを良い人だと信じたかったんだ。
 多分、ただ、それだけだ。

「……ふう」

 大きく息を吐き出した途端、草陰からガサっと物音が響いてきた。びっくりして勢い良く立ち上がる。

「なに?」

(もしかして、ゴンゴドーラ?)

 一気に血の気が引く。

(食われて死んでやる! なんて、ただのやっつけだよ!)

 逃げよう。踵を返したとき、草陰から何が飛び出してきた。

「キャア!」

 悲鳴を上げた。体が硬直して動けないかわりにそれを凝視した。飛び出してきたものは、人の形をしていた。

「ドラゴンじゃない?」

 ぎゅっと目を凝らしていると、ザク、ザクと、草を踏みしめて、その影は近づいてくる。ドラゴンじゃなくても、これはこれで超怖い!

 逃げようと後ずさると同時に、その人物は月明かりの届く地面へと足を踏み出した。

「女の子?」

 呟いて、少女を凝視する。
 モンゴルの民族衣装のような服を着た少女。あれ、見覚えがある。

「結さん?」

 少女はこくりと頷いた。ああ、やっぱり服は違うけど、結さんだ。

「どうしてこんなところに?」
「偵察」
「偵察? って、どこの?」
「この部族、結構危ない。だから気づいてないか、偵察」

 服の裾を引っ張って、何故か結さんは片言で答えた。
 良くわかんないけど、風間さんが言ってた仕事かな?

「あの――」

 声をかけようとした瞬間、結さんがピクリと跳びはねるように動いた。

「……主」
「え?」

 呟いて、結さんはジャンプの姿勢をとると、そのまま上に向って跳ねる残像を残して消えてしまった。
 それと同時に、坂の方から声が飛んできた。

「お~い!」

 声の主は手を振りながら坂を駆けてくる。
 悪びれもしない無邪気な顔で、私の前でスピードを落として止った。私は瞬間、ムッとした。おかげで、結さんがどこに消えたのか、どうやっていなくなったのか考える間もなかったくらい。

「雪村くん。なにか用?」
「え? えっと、東の門の結界が一瞬だけ緩んだからさ、なんかあったのかなって」

 私の険まみれの声に、雪村くんは戸惑ったみたでしどろもどろだ。

「私を恋に落として、魔王を手に入れる算段だったんでしょ」
「ああ、そのことか」

 思いっきり睨み付けた私に、あまりにもあっけらかんと雪村くんは返した。
(はあ!?)
 二の句が告げない私にかまわず、雪村くんは続ける。

「風間は一族のためにって躍起になってるし、黒田くんは先の大戦の時に、功歩の岐附への侵略の道沿いに彼の村が入ってて、大分被害が出たんだって。考えてみたら、俺が八歳のときだから、彼が六歳の頃なのか。進軍があったのって」

(六歳?)
私は密かに絶句した。それと同時に、クロちゃんのあの怒りを思い出していた。
 彼の過去に、どれほどのことがあったんだろう。でも、私を騙そうとしたことと、そのことは別の話よ。

「花野井さんも、なんか事情があるみたいだしね」
「え?」
「っていうか、あそこにいる人達はみんな事情がある人ばっかだよ。なんせ、魔王なんてもんにすがってまで、叶えたい願いがあるんだからさ」

(まるで他人事みたいな言いようね)

 私は怪訝と同時に怒りを覚えた。

「雪村くんだって、願いがあってこんなことしたんじゃないの?」
「俺? 俺はなぁ……風間に押し切られた感じだからなぁ……」
「……それで、私を騙したわけ? 信念もなく、なんとなく押し切られたから?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」

 そんなの、一番最低じゃない! 

「冗談じゃない!」
「わっ!」

 突然の怒声に、雪村くんは驚いて若干飛び跳ねた。
 私は彼を鋭く睨み付ける。

「私はね、こんな世界に突然連れて来られて、おまけに身体に変な物まで入れられて、『なんだよ話が違うよ。だったら、こいつで良いから中身のもん手に入れようぜ。なんだったら恋に落として惚れさせて言う事きかそうぜ』って勝手に賭け事の対象にされたのよ!?」
「そ、そこまでは――」
「そうじゃない! どこが違うのよ、言って見なさいよ!」

 詰め寄ると、雪村くんはあたふたしつつ、顔を赤らめた。
(こんな時まで演技なの!?)

「純情ぶってんじゃないわよ!」
「ごめんなさい!」

 雪村くんが私を好き? 信じさせておいて、後でどうこうするつもりだったのよ! なにが、信じてくださいだ。信じた私がバカだった! 
 悔しくて、泣きそう。

「そうよ」
「え?」
「信じたの。信じたのよ。理由はなんであれ、あなた達のこと、信じてたのよ!」

 裏があったのかも知れないけれど、親切にしてくれた。
 こんな寄る辺もない世界で、居場所をくれた。
 ゴンゴドーラから、助けてくれた。

「あなた達の優しさを、信じたのに」

 呟いてた途端、堰を切って涙があふれ出した。
(よりにもよって、詐欺師の前で泣くなんて!)
 悔しい思いが胸を突いて、それが更に涙を促してしまう。

「……はっははは……」

 不意に笑いが漏れた。
 噎び泣きながら、今の自分が、何かに似ていると思った。そして気づいた。気づいたら、なんだか笑ってしまっていた。

 薄目を開けると、雪村くんが心配そうにあたふたしているようすが見えた。
 そりゃそうだ。号泣していた人間が突然笑い出すんだから。私は、どこか暢気にそんな風に思っていた。

「……ラングル」
「へ?」

 低声に、雪村くんは耳をそばだてた。
 聞き取れたのか、聞き取れなかったのかはわからないけど、彼はそれ以上なにも言わなかった。
 なにも言わず、ただ、狼狽していた。

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