悪の華は恋を廻る
ジョルジュがゾフィの寝室から出てきたのは、随分と時間が経ってからだった。
今か今かと、部屋の前をウロウロ歩き回っていたダミアンは、ジョルジュから漂う甘く濃厚な香りにすぐに気づいた。
「てめぇ……。お嬢さんに何をした!」
「私は治療をしたまでですよ」
いけしゃあしゃあとそんなことを言い、ジョルジュはペロリと唇を舐める。その仕草がダミアンを更にいらつかせた。
「あんたから、お嬢さんの匂いがプンプンする。あんた、主人の血を吸ったのか……!」
力任せに胸倉をつかむと、ジョルジュは簡単にそれを片手で払いのけた。
「治療だと、そう言ったでしょう。お嬢様は人間のために魔術をお使いになった。人間の死を司る魔族にとって、その行動は命取り。徐々に中から蝕まれていく。私はそれを取り除いだにすぎません」
ジョルジュは涼し気な顔で乱れた服を整えた。
「あんた……。前から気になっていたんだが、なにが目的だ。なにが目的で、お嬢さんに仕えている」
「なにが目的って……これが私の仕事ですからね」
「うそだ。お嬢さんは、名門貴族の生まれだがお嬢さん自身の魔族地位は低い。私生児とはいえ、吸血族の名家出身のあんたの方が、魔界では力がある。それが、なぜだ? なぜ、お嬢さんに執着する?」
なおもしつこく食い下がるダミアンに、ジョルジュはふと昔を思い出した。
魔力を持たない赤子が生まれたと聞いた時、ジョルジュはまさかその子の面倒を命じられるとは思っていなかった。
彼女の実母は出産時に亡くなっており、魔力の感じない娘を見限った父親は、ゾフィを北の塔に追いやっていた。
適当に使用人をつけ、塔に幽閉しておこうと考えたジョルジュは、早速ゾフィの元に向かった。だが、事態は意外な方向に動いたのだ。
魔力を感じない赤子が、そこにはいた。話に聞いていた通りだった。
なんの感情も湧かずに赤子が寝ている小さなカゴを覗き込むと、小さな顔をくしゃくしゃに歪めて、泣いていた。
いくら名門貴族の娘とはいえ、魔力がない魔族など誰も相手にはしない。部屋の中には数人の使用人がいたが、誰も赤子をあやそうとはしなかった。
その子に手を近づけたのは、ただ単に、泣き止ませようとしたためだった。だが、伸ばされたジョルジュの指を、その赤子は、はしっと掴んだ。
その瞬間、濃度の濃い魔力がジョルジュの体に流れ込んできた。それは、誰もが認める高位の吸血族であるジョルジュでも驚く程の力だった。
その力の源は、目の前で泣いている赤子に違いなかった。
縋るようにぎゅっと握りしめた指から流れてくる魔力は、甘く、強く、ジョルジュを翻弄した。
心から、欲しい、と思った。
幸い、使用人はおろか、城の住人ですら赤子の力には気づいていない。どうやら、赤子は魔族でも珍しい体質のようだった。現に、そっとその手を外すと、目の前の赤子から魔力を感じることはない。
(この方は、私だけのものだ)
そんな衝動にも似た強い独占欲に襲われ、ジョルジュはゾフィの力を隠したまま、北の塔に移り住んだ。
「幸い、誰もお嬢様の力には気づきませんでした。それもそうでしょう。お嬢様の魔力は、お嬢様が直に触れ、そして強い意思の元、発動するものだったのです。ですが普段外に出ない分、蓄積された魔力は純粋で濃厚。とても強く、そして甘い」
チラリとダミアンを見ると、ジョルジュは口角を少し上げ、意味ありげに続けた。
「お前も、知っているでしょう」
「なっ……!」
契約を交わした際の口づけを思い出し、ダミアンは顔を赤らめる。
思い出しただけで喉が乾いた気がした。それを隠すように大きな手で口を覆うが、そんなダミアンの心の内は、ジョルジュにはお見通しだった。
「お前は今、私に嫉妬しているのですよ。お前もまた、お嬢様の味が忘れられず、囚われたのだから」
「ち、違う! 俺はただ……ただ、お嬢さんを心配しているだけだ!」
「心配? 強引に人間界に連れてきて、無理やり使い魔の契約をされて? お前は心底、ここの生活を嫌がっていたはずではありませんか」
「そ、それは……」
「囚われているのですよ。お前も、私も。あの方にね」
そう言ってジョルジュは妖艶な笑みを浮かべる。ダミアンは目を見開き、彼を見つめた。先に視線を外したのはジョルジュだった。
「お嬢様は眠っておいでです。熱は引きました。明日にはいつも通りのお嬢様に戻っているでしょう。私は、治療をしたのです」
ジョルジュが去ってもなお、彼が纏っていたゾフィの魔力が残り香となって、ダミアンの鼻孔をくすぐる。
彼女に触れたい。また味わいたい。
そんな衝動がダミアンを襲う。
ダミアンはそれを振り切るかのように頭をブンブンと振ると、急ぎ足でその場を去った。
その場にいては、誘惑に負けてしまいそうな気がした。
そしてそうしてしまっては、ジョルジュの思惑通りだと思った。
「くそっ!」
自室に入ってからもなお、ジョルジュの話が頭にこびりついている。
そして、あの時のゾフィの味も、彼女の唇から与えられたあの高揚感もどうしても拭い去ることができない。
(お嬢さんの血を、あの男が、吸った……。お嬢さんの首筋に牙を立てて、お嬢さんの香りを感じながら……!)
考えるだけで、全身の血液が沸騰しそうだった。
ジョルジュは言っていた。ゾフィの魔力を感じるのは、彼女の意思が必要なのだと。
では、ジョルジュが血を吸った時、彼女もまた、それを望んだということだ。
それは間違った方法で魔力を使ったことにより、体内にできた毒から逃れたいという想いが強く、その結果ジョルジュに身を任せたのだろう。
そう理解しようとしても、ダミアンの頭は受け付けることができない。
理屈ではないのだ。
たとえ彼女自身が救いを求めたのだとしても、彼女が自分以外の男に触れるなど、到底我慢できるものではない。
だが、身体の中を吹き荒れる嵐のような嫉妬と渇望に負け、彼女に触れることはできない。
それでは、ジョルジュと同じになってしまう。
それだけは嫌だった。彼女の弱みにつけこむようなことはしたくなかった。
「――くそっ……気が、狂いそうだ……」
* * *
翌日、目を覚ましたゾフィは、久しぶりに頭がスッキリとし、体が軽いことに気が付いた。
このところゾフィを悩ませていためまいや、全身のだるさも感じない。
「あーっ。良く寝た!」
気分よくドレスを選び、着替えて部屋を出ると、ダミアンを鉢合わせた。
「あら、ダミアン。おはよう」
「あっ……う、お、おう」
爽やかな朝だというのに、目の前のダミアンはどんよりとした空気をまとっている。
「どうしたの? なんだか顔が赤いし、言葉がしどろもどろだわ」
「な、なんでもねえ! それよりその……平気なのか」
「え? なにが?」
ダミアンの言葉に、ゾフィは不思議そうに頭を傾げた。
「昨日のこと……覚えてねえのか」
「昨日? 私、なにかした?」
「……家の前で倒れた。俺が、運んだ」
そんななんでもない言葉でも、ダミアンはゾフィを抱き上げた時の感触と、体中で感じた熱を思い出してしまった。
「え? 覚えてないわ……。そうだったの。ありがとう」
「覚えて、ないのか? いや……その……。なら、いいんだ。元気になったなら、いい」
ぶっきらぼうにそう言うと、ダミアンは行ってしまった。
(何だったのかしら……)
気になったが、それよりも久しぶりに感じる空腹を解消するのが先だ。
ゾフィはいそいそとダイニングへと向かった。
なにしろ、やることは山のようにある。
ほったて小屋……もとい、厩舎の修理に、果樹園の手入れ。伯爵家を去った使用人たちには手紙を書かなければ……。
ばれないように、少しずつ。でも、とびきりの願いを込めて、魔術をかける。
その成果もあって、少しずつだが、領地には活気が戻ってきていた。
この日も、ゾフィはブランシャール伯爵家に向かうべく、屋敷を出た。
『おい』
はて。どこからか声がする。
『おい』
声のする方を見ると、立派な芦毛の馬が立っていた。しかも、ご丁寧に鞍までつけて。
「……自分でつけたの?」
『うるせえ。早く乗れ』
「アーロンから馬を借りて一緒に出掛けたかったのに……。自らの意思で馬に姿を変えたうえに鞍までつけてくるなんて、あなた獣人族の名門としてのプライドはないの?」
『うるせえ。いいから早くしろ』
姿は馬だというのに、相変わらずダミアンはガウガウとうるさい。
使い魔の契約を交わしたというのに、まったく従順でないとは一体どういうことだろう。
ゾフィは諦めて、手綱を持った。
ダミアンは、あれから一晩眠れずに、ずっと考えていた。
ゾフィとの関係は、使い魔の契約を交わした以上、逃れることはできない。
ならば、どうするか?
(守るしか、ないだろう)
昨日のジョルジュの話では、人間を助けるために魔力を使うことが原因らしい。
ならば、常にそばにいて、ゾフィが無謀なことをしないよう、監視すればいい。
そうすることによって、ジョルジュもまた、昨晩のような行動には出られないだろう。
誇り高き名門獣人族のダミアンにとって、馬に変化するということはたやすいことだが、それが誰かを乗せるためとなると屈辱でしかない。
だが、今はそんなことを言っている場合でもなかった。
「おや、おふたりでお出掛けですか」
突然聞こえた声にドキリとし、ダミアンが声の方を向くと、ジョルジュが立っていた。
手には暖かそうなショールを持っている。
「ええ……。乗れと言って聞かないのよ」
「自ら馬になり、鞍をつけ足になるとは……お前はプライドがないのですか?」
「そう思うわよね?」
ゾフィと同じ台詞でも、ジョルジュが言うとイラッとする。
(うるせえ! お前の魔の手からお嬢さんを守るためだ!)
睨みながら心の中で毒づくと、そんな視線など意に介した様子もなく、ジョルジュは持っていたショールでゾフィを包んだ。
「やっと熱が下がりましたのに、こんなに首元が開いていては、お身体が冷えますよ」
「あら。ありがとう」
ジョルジュが優雅なしぐさでショールを巻いていく。
その時、ドレスの縁から覗いたゾフィの首筋に、赤い痕が見えた。うっすらと色づく程度ではあったが、それは昨晩ジョルジュがつけた牙の痕に違いなかった。術で傷を塞いだようだが、ダミアンにはすぐに分かった。それを目の当たりにし、ダミアンは全身の毛が逆立つ想いだった。
ゾフィはそれに気づいた様子もなく、ジョルジュに手を差し出す。
「ジョルジュ、手を貸してくれる?」
「ええ。どうぞ、お嬢様」
ゾフィが無事、鞍に腰を下ろすと、ジョルジュは小さな声で囁いた。
「お前も、小さな男ですね。そんなことで、私の邪魔をしたつもりですか?」
『なっ……!?』
言葉に窮したダミアンに向かって、ジョルジュはニヤリと暗い笑みを見せた。それは、ゾフィの前では決して見せない表情だった。
「今はせいぜい、お嬢様の手となり足となってお役に立ちなさい。ですが、お嬢様は必ず、最後には私を求めます」
流れている血が凍ってしまいそうな、低く冷たい声でダミアンに囁く。すると、焦れたゾフィが手綱をクッと引いた。
「どうしたの? ほら、早く行くわよ」
「今日はお天気が崩れそうだと、ダミアンに伝えたのですよ。病み上がりのお嬢様に雨は毒ですからね」
ジョルジュの言葉に、ゾフィが軽やかな笑い声を返す。
「病み上がりだなんて、大げさね。今日はとっても身体が軽いの。さぁ、張り切って行くわよ!」
ゾフィの言葉に、ジョルジュは嬉しそうに微笑んだ。
「それは良うございました」
遠ざかるゾフィの後ろ姿を見ながら、ジョルジュは昨晩の出来事を思い返した。
狂おしいほどに甘く、熱く、ジョルジュの体内を駆け巡る悦楽。細胞の隅々までが歓喜し、震えた夜。
その感覚を思い出すだけでも身体が熱くなり、喉が渇く。
「貴女が……私の手を取ったのです。あの時、貴女が私の指を掴み、生きたいと願った。流れ込んできた魔力に私の魂は震えたのです」
ジョルジュは長く、ゾフィを城から攫う機会を伺っていた。
ゾフィ自身が城を出ることを計画していると知った時、この好機を逃してはならないと思った。そのきっかけが、ひとりの人間の男だと知った時は、嫉妬に狂いそうだった。
だが……そんなことは小さな小さなことだ。料理の、ほんのスパイスに過ぎない。
重要なのは、ジョルジュと共にゾフィがいるということなのだから。
「……今更……手放すつもりなど、ありませんよ」
ジョルジュが呟いた時には、もうゾフィの姿は見えなくなっていた。
今か今かと、部屋の前をウロウロ歩き回っていたダミアンは、ジョルジュから漂う甘く濃厚な香りにすぐに気づいた。
「てめぇ……。お嬢さんに何をした!」
「私は治療をしたまでですよ」
いけしゃあしゃあとそんなことを言い、ジョルジュはペロリと唇を舐める。その仕草がダミアンを更にいらつかせた。
「あんたから、お嬢さんの匂いがプンプンする。あんた、主人の血を吸ったのか……!」
力任せに胸倉をつかむと、ジョルジュは簡単にそれを片手で払いのけた。
「治療だと、そう言ったでしょう。お嬢様は人間のために魔術をお使いになった。人間の死を司る魔族にとって、その行動は命取り。徐々に中から蝕まれていく。私はそれを取り除いだにすぎません」
ジョルジュは涼し気な顔で乱れた服を整えた。
「あんた……。前から気になっていたんだが、なにが目的だ。なにが目的で、お嬢さんに仕えている」
「なにが目的って……これが私の仕事ですからね」
「うそだ。お嬢さんは、名門貴族の生まれだがお嬢さん自身の魔族地位は低い。私生児とはいえ、吸血族の名家出身のあんたの方が、魔界では力がある。それが、なぜだ? なぜ、お嬢さんに執着する?」
なおもしつこく食い下がるダミアンに、ジョルジュはふと昔を思い出した。
魔力を持たない赤子が生まれたと聞いた時、ジョルジュはまさかその子の面倒を命じられるとは思っていなかった。
彼女の実母は出産時に亡くなっており、魔力の感じない娘を見限った父親は、ゾフィを北の塔に追いやっていた。
適当に使用人をつけ、塔に幽閉しておこうと考えたジョルジュは、早速ゾフィの元に向かった。だが、事態は意外な方向に動いたのだ。
魔力を感じない赤子が、そこにはいた。話に聞いていた通りだった。
なんの感情も湧かずに赤子が寝ている小さなカゴを覗き込むと、小さな顔をくしゃくしゃに歪めて、泣いていた。
いくら名門貴族の娘とはいえ、魔力がない魔族など誰も相手にはしない。部屋の中には数人の使用人がいたが、誰も赤子をあやそうとはしなかった。
その子に手を近づけたのは、ただ単に、泣き止ませようとしたためだった。だが、伸ばされたジョルジュの指を、その赤子は、はしっと掴んだ。
その瞬間、濃度の濃い魔力がジョルジュの体に流れ込んできた。それは、誰もが認める高位の吸血族であるジョルジュでも驚く程の力だった。
その力の源は、目の前で泣いている赤子に違いなかった。
縋るようにぎゅっと握りしめた指から流れてくる魔力は、甘く、強く、ジョルジュを翻弄した。
心から、欲しい、と思った。
幸い、使用人はおろか、城の住人ですら赤子の力には気づいていない。どうやら、赤子は魔族でも珍しい体質のようだった。現に、そっとその手を外すと、目の前の赤子から魔力を感じることはない。
(この方は、私だけのものだ)
そんな衝動にも似た強い独占欲に襲われ、ジョルジュはゾフィの力を隠したまま、北の塔に移り住んだ。
「幸い、誰もお嬢様の力には気づきませんでした。それもそうでしょう。お嬢様の魔力は、お嬢様が直に触れ、そして強い意思の元、発動するものだったのです。ですが普段外に出ない分、蓄積された魔力は純粋で濃厚。とても強く、そして甘い」
チラリとダミアンを見ると、ジョルジュは口角を少し上げ、意味ありげに続けた。
「お前も、知っているでしょう」
「なっ……!」
契約を交わした際の口づけを思い出し、ダミアンは顔を赤らめる。
思い出しただけで喉が乾いた気がした。それを隠すように大きな手で口を覆うが、そんなダミアンの心の内は、ジョルジュにはお見通しだった。
「お前は今、私に嫉妬しているのですよ。お前もまた、お嬢様の味が忘れられず、囚われたのだから」
「ち、違う! 俺はただ……ただ、お嬢さんを心配しているだけだ!」
「心配? 強引に人間界に連れてきて、無理やり使い魔の契約をされて? お前は心底、ここの生活を嫌がっていたはずではありませんか」
「そ、それは……」
「囚われているのですよ。お前も、私も。あの方にね」
そう言ってジョルジュは妖艶な笑みを浮かべる。ダミアンは目を見開き、彼を見つめた。先に視線を外したのはジョルジュだった。
「お嬢様は眠っておいでです。熱は引きました。明日にはいつも通りのお嬢様に戻っているでしょう。私は、治療をしたのです」
ジョルジュが去ってもなお、彼が纏っていたゾフィの魔力が残り香となって、ダミアンの鼻孔をくすぐる。
彼女に触れたい。また味わいたい。
そんな衝動がダミアンを襲う。
ダミアンはそれを振り切るかのように頭をブンブンと振ると、急ぎ足でその場を去った。
その場にいては、誘惑に負けてしまいそうな気がした。
そしてそうしてしまっては、ジョルジュの思惑通りだと思った。
「くそっ!」
自室に入ってからもなお、ジョルジュの話が頭にこびりついている。
そして、あの時のゾフィの味も、彼女の唇から与えられたあの高揚感もどうしても拭い去ることができない。
(お嬢さんの血を、あの男が、吸った……。お嬢さんの首筋に牙を立てて、お嬢さんの香りを感じながら……!)
考えるだけで、全身の血液が沸騰しそうだった。
ジョルジュは言っていた。ゾフィの魔力を感じるのは、彼女の意思が必要なのだと。
では、ジョルジュが血を吸った時、彼女もまた、それを望んだということだ。
それは間違った方法で魔力を使ったことにより、体内にできた毒から逃れたいという想いが強く、その結果ジョルジュに身を任せたのだろう。
そう理解しようとしても、ダミアンの頭は受け付けることができない。
理屈ではないのだ。
たとえ彼女自身が救いを求めたのだとしても、彼女が自分以外の男に触れるなど、到底我慢できるものではない。
だが、身体の中を吹き荒れる嵐のような嫉妬と渇望に負け、彼女に触れることはできない。
それでは、ジョルジュと同じになってしまう。
それだけは嫌だった。彼女の弱みにつけこむようなことはしたくなかった。
「――くそっ……気が、狂いそうだ……」
* * *
翌日、目を覚ましたゾフィは、久しぶりに頭がスッキリとし、体が軽いことに気が付いた。
このところゾフィを悩ませていためまいや、全身のだるさも感じない。
「あーっ。良く寝た!」
気分よくドレスを選び、着替えて部屋を出ると、ダミアンを鉢合わせた。
「あら、ダミアン。おはよう」
「あっ……う、お、おう」
爽やかな朝だというのに、目の前のダミアンはどんよりとした空気をまとっている。
「どうしたの? なんだか顔が赤いし、言葉がしどろもどろだわ」
「な、なんでもねえ! それよりその……平気なのか」
「え? なにが?」
ダミアンの言葉に、ゾフィは不思議そうに頭を傾げた。
「昨日のこと……覚えてねえのか」
「昨日? 私、なにかした?」
「……家の前で倒れた。俺が、運んだ」
そんななんでもない言葉でも、ダミアンはゾフィを抱き上げた時の感触と、体中で感じた熱を思い出してしまった。
「え? 覚えてないわ……。そうだったの。ありがとう」
「覚えて、ないのか? いや……その……。なら、いいんだ。元気になったなら、いい」
ぶっきらぼうにそう言うと、ダミアンは行ってしまった。
(何だったのかしら……)
気になったが、それよりも久しぶりに感じる空腹を解消するのが先だ。
ゾフィはいそいそとダイニングへと向かった。
なにしろ、やることは山のようにある。
ほったて小屋……もとい、厩舎の修理に、果樹園の手入れ。伯爵家を去った使用人たちには手紙を書かなければ……。
ばれないように、少しずつ。でも、とびきりの願いを込めて、魔術をかける。
その成果もあって、少しずつだが、領地には活気が戻ってきていた。
この日も、ゾフィはブランシャール伯爵家に向かうべく、屋敷を出た。
『おい』
はて。どこからか声がする。
『おい』
声のする方を見ると、立派な芦毛の馬が立っていた。しかも、ご丁寧に鞍までつけて。
「……自分でつけたの?」
『うるせえ。早く乗れ』
「アーロンから馬を借りて一緒に出掛けたかったのに……。自らの意思で馬に姿を変えたうえに鞍までつけてくるなんて、あなた獣人族の名門としてのプライドはないの?」
『うるせえ。いいから早くしろ』
姿は馬だというのに、相変わらずダミアンはガウガウとうるさい。
使い魔の契約を交わしたというのに、まったく従順でないとは一体どういうことだろう。
ゾフィは諦めて、手綱を持った。
ダミアンは、あれから一晩眠れずに、ずっと考えていた。
ゾフィとの関係は、使い魔の契約を交わした以上、逃れることはできない。
ならば、どうするか?
(守るしか、ないだろう)
昨日のジョルジュの話では、人間を助けるために魔力を使うことが原因らしい。
ならば、常にそばにいて、ゾフィが無謀なことをしないよう、監視すればいい。
そうすることによって、ジョルジュもまた、昨晩のような行動には出られないだろう。
誇り高き名門獣人族のダミアンにとって、馬に変化するということはたやすいことだが、それが誰かを乗せるためとなると屈辱でしかない。
だが、今はそんなことを言っている場合でもなかった。
「おや、おふたりでお出掛けですか」
突然聞こえた声にドキリとし、ダミアンが声の方を向くと、ジョルジュが立っていた。
手には暖かそうなショールを持っている。
「ええ……。乗れと言って聞かないのよ」
「自ら馬になり、鞍をつけ足になるとは……お前はプライドがないのですか?」
「そう思うわよね?」
ゾフィと同じ台詞でも、ジョルジュが言うとイラッとする。
(うるせえ! お前の魔の手からお嬢さんを守るためだ!)
睨みながら心の中で毒づくと、そんな視線など意に介した様子もなく、ジョルジュは持っていたショールでゾフィを包んだ。
「やっと熱が下がりましたのに、こんなに首元が開いていては、お身体が冷えますよ」
「あら。ありがとう」
ジョルジュが優雅なしぐさでショールを巻いていく。
その時、ドレスの縁から覗いたゾフィの首筋に、赤い痕が見えた。うっすらと色づく程度ではあったが、それは昨晩ジョルジュがつけた牙の痕に違いなかった。術で傷を塞いだようだが、ダミアンにはすぐに分かった。それを目の当たりにし、ダミアンは全身の毛が逆立つ想いだった。
ゾフィはそれに気づいた様子もなく、ジョルジュに手を差し出す。
「ジョルジュ、手を貸してくれる?」
「ええ。どうぞ、お嬢様」
ゾフィが無事、鞍に腰を下ろすと、ジョルジュは小さな声で囁いた。
「お前も、小さな男ですね。そんなことで、私の邪魔をしたつもりですか?」
『なっ……!?』
言葉に窮したダミアンに向かって、ジョルジュはニヤリと暗い笑みを見せた。それは、ゾフィの前では決して見せない表情だった。
「今はせいぜい、お嬢様の手となり足となってお役に立ちなさい。ですが、お嬢様は必ず、最後には私を求めます」
流れている血が凍ってしまいそうな、低く冷たい声でダミアンに囁く。すると、焦れたゾフィが手綱をクッと引いた。
「どうしたの? ほら、早く行くわよ」
「今日はお天気が崩れそうだと、ダミアンに伝えたのですよ。病み上がりのお嬢様に雨は毒ですからね」
ジョルジュの言葉に、ゾフィが軽やかな笑い声を返す。
「病み上がりだなんて、大げさね。今日はとっても身体が軽いの。さぁ、張り切って行くわよ!」
ゾフィの言葉に、ジョルジュは嬉しそうに微笑んだ。
「それは良うございました」
遠ざかるゾフィの後ろ姿を見ながら、ジョルジュは昨晩の出来事を思い返した。
狂おしいほどに甘く、熱く、ジョルジュの体内を駆け巡る悦楽。細胞の隅々までが歓喜し、震えた夜。
その感覚を思い出すだけでも身体が熱くなり、喉が渇く。
「貴女が……私の手を取ったのです。あの時、貴女が私の指を掴み、生きたいと願った。流れ込んできた魔力に私の魂は震えたのです」
ジョルジュは長く、ゾフィを城から攫う機会を伺っていた。
ゾフィ自身が城を出ることを計画していると知った時、この好機を逃してはならないと思った。そのきっかけが、ひとりの人間の男だと知った時は、嫉妬に狂いそうだった。
だが……そんなことは小さな小さなことだ。料理の、ほんのスパイスに過ぎない。
重要なのは、ジョルジュと共にゾフィがいるということなのだから。
「……今更……手放すつもりなど、ありませんよ」
ジョルジュが呟いた時には、もうゾフィの姿は見えなくなっていた。