悪の華は恋を廻る
ゾフィとダミアンが果樹園に着くと、既にアーロンが柵の修理を始めていた。
アーロンの明るい金髪が朝日に輝き、まぶしい。このところは笑顔も増えた気がする。アルバンが言ったこともあながち勘違いではないかもしれない。
ゾフィがいることで、もしもアーロンが元気になっているのなら……そう考えただけでもとても嬉しい。自然と、ゾフィの表情もほころぶ。
ダミアンはゾフィの様子に、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
『おい、なんだ、この貧乏くせぇ場所は。まさか、今からアレを手伝うって言うんじゃねえだろうな?』
「手伝うに決まってるじゃない」
『おいっ……!』
「ちょっと、ダミアン。人間界の馬は喋らないのよ。黙っててよね」
『俺の言葉が人間にわかるわけないだろう!』
「それでも! 大人しくしてほしいのよ」
手袋を外し、指をダミアンの口に付ける。すると、抗議しようと開けた口が、ピタッと合わさる。
『む、むぐぐぐぐぐぐ……』
思うように口が開かない。
術で言葉を封じられたダミアンは不満げにゾフィを見るが、ゾフィはそれに構うことなく、近くの木にダミアンを繋いでしまった。
「アーロン様。おはようございます」
「ゾフィ嬢! おはようございます。今日も来てくださったのですか? 昨日は体調がすぐれないようでしたが……」
「ええ。もう大丈夫ですわ。とは言いましても、私が来たところであまり役には立たないのですけれど……」
そう言うと、ゾフィはしおらしく微笑んでみせた。
離れたところでは、ダミアンは鼻を鳴らしている。
本当はこっそり魔術を使って手伝っているのだが、そんなことはアーロンには言えない。
表向きはあちこちを見て回り、励ますくらいしかやることがないのだ。
「そんなことはありません。ゾフィ嬢の淹れてくれる紅茶はとても美味しいと、皆喜んでおります」
「まぁ……そんな……。私、使用人任せは好きではありませんの。それで覚えましたのよ。喜んでいただけて嬉しいですわ」
ほほほ。と笑いながら、心の中でガッツポーズをした。ジョルジュに教えてもらったかいがあったというものだ。
「そうなんですか……。うちの小作人にも気さくに声をかけてくださって……ゾフィ嬢は……とてもお優しい方ですね」
「まぁ……」
直接触れなければ魔術は使えない。気になっていた伯爵家のことを探るためにも、様々なところから情報を得なければならなかった。そのため、誰彼構わず近づき、話しかける。そして隙を見てそっと触れる。
それをアーロンたちにばれないようにやらなければならないのだから、一度に得る情報は少ない。容量の悪い、不便な体質だと思っていたのだが、まさかアーロンがそんなふうに勘違いをしているとは思わなかった。
「ここに療養に来て、私本当に容体が良くなりましたのよ。ですから少しでもお役に立ちたいのです」
ゾフィが控えめに微笑むと、アーロンはゾフィの手を取った。
(ああああああ! 手袋越しなのが悔しい! せっかくのチャンスなのに!)
「現場の空気もとても明るくなって、皆が張り切っております」
「まぁ……。それは、アーロン様もでございますか?」
ゾフィの言葉に、アーロンが目を泳がせる。
すると、慌ててゾフィの手を離した。
「あっ……これは、失礼いたしました。柵の修理で汚れている手で、あなたの手を取るなど……。手袋を汚してしまいました」
そんなアーロンに業を煮やしたのか、アルバンが口を開いた。
「一番張り切っておいでなのは若さまで」
「えっ?」
「おい、こら。アルバン!」
アーロンが顔を赤らめてアルバンをたしなめる。
「確かに。ゾフィ様がおられると、若さまの仕事もはかどるってもんで」
他の小作人もアルバンの意見に賛同した。
最近は、果樹園の仕事も忙しくなったこともあって、領地に戻ってきた者もいる。
「まぁ。私もアーロン様のお役に立っていて?」
「そりゃ勿論で。ねえ? 若さま。ゾフィ様はまるでこの領地に現れた女神様ではないですか」
(あらら、女神だなんて……本当は魔族なのに?)
思わず苦笑がこぼれ、ゾフィは慌てて手で口元を隠した。
小作人たちの言葉に、アーロンもしどろもどろだ。
「いや、その……あの……。ええ、本当に。助かっています。あの……僕たちが、今こうして前に向かって進んでいけるのは、ゾフィ嬢のおかげなんですよ」
「若さま。良い方がいらっしゃいましたなあ」
「か、からかうんじゃない! お困りではないか。ゾフィ嬢は療養中なのだ。ゾフィ嬢、来てくださるのはとても嬉しいのですが、あまりご無理はなさらないでください。皆、心配します」
「皆が……アーロン様も、ですの?」
「……ええ」
少しはにかみながら答えるアーロンの姿に、ゾフィは喜びで飛び上がりそうだった。
まさか、こんな言葉をもらえるとは思っていなかった。
ダミアンがしきりに鼻を鳴らしているが、知ったことではない。ゾフィは幸せでいっぱいだった。
そんな和やかな雰囲気の果樹園に、ガラガラと大きな音が聞こえた。
近くの農道を大きな馬車が音を立てて走っている。
農道は整備されておらず、馬車も苦戦しているようで時折大きく揺れた。あれでは乗っている方も大変だろう。
「どなただろう……。今日は訪問者の予定はないのですが……」
怪訝な顔をして馬車を見るアーロンの目が、次の瞬間、驚きに見開いた。
「どうなさいましたの?」
「……エルランジェ男爵家の……紋章が……」
絞り出すような小さな声に、ゾフィもまた驚き、馬車を見つめる。
エルランジェ男爵家――アーロンの元婚約者の名だ。
当主が変わり、それからは付き合いがないと聞いていたが、一体なんの用だろう。
ゾフィも少し身構え、馬車が通りすぎるのを待つ。だが、馬車は果樹園の入口にピタリと止まった。
先ほどまで和気藹々としていたのが嘘のように、皆が息を飲んで馬車に注目している。
すると、御者の手を借りて降りてきたのは、意外な人物だった。
「ルーチェ……」
放心したように立ち尽くすアーロンが、小さく呟いたのは、亡き婚約者の名だ。
ゾフィもまた驚きを隠せなかった。馬車を降り、こちらに向かってくるのは、まぎれもなくあの日見たルーチェ・エルランジェだった。
人形のように整った小さな顔は柔らかな微笑みをたたえ、明るい金髪の髪はふわふわと風に揺れ、日差しに輝いている。華奢な体はレースをふんだんに使った淡い青色のドレスが包み込み、その姿はまるで天使のように儚げで可憐な少女だった。
少女はまっすぐアーロンに向かって歩いてくる。
アーロンはそれを、茫然と見つめていた。
少女はそんなアーロンの前で歩を停めると、裾を持ち上げて優雅に腰をおとした。
「お久しぶりでございます。アーロンお兄様」
「ルーチェ……」
頭を上げた少女はアーロンをひたと見つめる。
だが、その瞳は慈愛に満ちたルーチェのものとは違い、とても冷たいものだった。
口角が上がり、微笑みを貼りつけてはいるものの、その目はまるで笑っていない。
皆が動揺している中、それに気づいたのはゾフィだけのようだった。
「嫌ですわ……。お忘れですか? 私はシャルロットですわ。ルーチェの……双子の妹です」
「双子?」
アーロンは混乱する頭で、なんとか思い出そうと過去に思いを巡らせた。
ぼんやりと蘇る記憶の中、とある光景が蘇る。
昔、まだアーロンもルーチェも幼かった頃、花畑で花冠をつくっているルーチェの横で、同じように花冠を作っている少女がいた。
その姿はルーチェにとてもよく似ている。
ただ、性格は正反対なようで、丁寧にゆっくりと作るルーチェとは違い、シャルロットは少し乱暴な手つきで所々花が潰れていた。心配そうに見るアーロンの前で、また花びらが千切れてハラハラとこぼれ落ちる。
「シャルロット。それではお花が可哀想だわ」
見かねたルーチェが手ほどきしようとすると、シャルロットと呼ばれた少女はふてくされ、途中までこしらえた花冠を放り投げてしまった。
「私、こういうの得意じゃないの。それなのに、ルーチェはアーロンお兄様の前でそんなこと言うのね。意地悪だわ」
「ごめんなさいシャルロット……」
悲しそうに顔を歪ませ、ルーチェはシャルロットの花冠を拾い上げた。
シャルロットはそのまま駆け出し、ルーチェの兄、エリクに抱きついた。
エリクは困った顔をするが、そのままシャルロットを抱き上げる。そして悲しそうにこちらをじっと見ていたルーチェに微笑むと、軽く頷いてルーチェからシャルロットを遠ざけるように歩き出した。
再びアーロンの隣に腰を下ろしたルーチェは、シャルロットの花冠を丁寧に解いていく。
「シャルロットは、うまく作れずに悲しかったんだよ」
「私、シャルロットと仲良く遊びたかっただけなの……。ごめんね、ごめんね、お花さん」
涙を浮かべ、丁寧な手つきで作り直すルーチェを、アーロンは励まし、手伝った。
シャルロットと呼ばれた少女は、軍服を来た紳士が迎えにくると、エリクの手を握りしめ離れようとしなかった。
「お父様。私もお兄様が欲しいわ。どうしてシャルロットはひとりぼっちなの?」
「おお、シャルロット。私の天使。そんなことを言わないでおくれ。さあ、お家へ帰ろう。お母様も待っているぞ? 帰りにお前の好きなケーキを買ってあげよう」
泣いてぐずるシャルロットを、紳士がなんとかなだめる。
「ケーキだけじゃ嫌! すぐになくなっちゃうもの。シャルロットと一緒に遊んでくれないもの!」
「そ、そうだね。じゃあ、ケーキの他に、お人形も買ってあげよう。シャルロットのお友達だよ」
「お人形? お父様、本当に?」
「ああ。本当だとも。男の子がいいかな? それとも女の子?」
「男の子がいいわ。エリクお兄様や、アーロンお兄様のような、優しくてシャルロットだけの王子様が欲しいの!」
ようやく泣き止んだシャルロットを優しく抱き上げると、紳士は帰って行った。
幼い頃、数回そんな光景を目にしたことがある。
ルーチェを失ったあの日、会っているはずなのだが、こんなにもルーチェに似ているなんて思わなかった……。
双子ならばそれも当然だろうが、離れて暮らしていても、ここまで似るものだろうか?
ルーチェと過ごした日々が、昨日のことのようにアーロンに襲い掛かった。
アーロンはやっとのことで、声を絞り出した。
「……覚えているよ……。ルーチェの、双子の妹だったのだね」
「ええ。私は幼い頃、子供のいなかった叔父に養子に出されましたの。ですが、叔父は騎士でしたから、王都近くで暮らしておりました」
記憶の中のあの紳士は、男爵の弟だったのだ。
騎士であるなら、たまにしか姿を見せなかったことも頷けた。
「そうですか……。では、現在エルランジェ男爵家にはその叔父上が?」
「ええ……。エリクお兄様もお亡くなりになり、お義父さまに継承権が……。私も、戻ってまいりましたの。やっと落ち着きましたので、今日はそのご挨拶に……でも、お忙しかったでしょうか?」
その言葉に、アーロンは首を横に振った。
「いいえ、構いませんよ。それにしても……立派な馬車で驚きました」
「以前の男爵家の馬車は、事故で壊れてしまいましたので」
「ああ……そうですね」
「色々と、変わっていくのですわ。……アーロンお兄様もそうなのではなくて?」
シャルロットはチラリとゾフィに目を向けた。
その意味ありげな視線に、アーロンは体をこわばらせる。
「こちらは、オルガディア王国のゾフィ・アンベール侯爵令嬢です。療養のため、セラーノに滞在中なのです」
「まあ、そうでしたの。私はてっきり、アーロンお兄様がルーチェをお忘れになったのかと……大変失礼いたしました」
驚いたように両手を口の前で合わせてはいるが、チラリと見える唇は弧を描いていた。
(この女……なにを企んでいるの?)
ゾフィはシャルロットの仕草に、なんともいえない嫌な空気を感じた。
「いいえ。アーロン様にはとてもお世話になっておりますのよ。そんなに責めるようなことをおっしゃらないで? アーロン様、どうやら今日はお約束があったようですわね」
「え? いえ……今日は来客の予定はなかったのですが……」
「そんな……貴族のご令嬢がお約束もなしに突然、ご自分より上位の貴族のお屋敷に訪ねていらっしゃるなんて……。そんな失礼なことあり得ませんわ。きっと、アーロン様がお忘れでしたのよ」
ゾフィの言葉に、シャルロットは顔を赤らめて睨み付けた。
それを言うなら、ゾフィも連絡なしで突撃訪問することがあるが、そこは他国とはいえ目上の侯爵令嬢ということで目を瞑って欲しい。
(まぁ、私は偽物だけどね)
それにしても、こうして見ると、改めてシャルロットはルーチェと似ているようで全然違うことが分かる。
だが、ルーチェそっくりなシャルロットの登場に、アーロンは激しく動揺しているようだった。
「アーロン様。お顔色がすぐれませんわ。お屋敷にお戻りになられては?」
「いや、ですが……」
ゾフィの勧めにも、アーロンは渋ってなかなか返事をしない。
他国の侯爵令嬢であるゾフィを置いたまま、この場を離れることができないのだろう。
ゾフィにしても、シャルロットと一緒に行かせるのは嫌だったが、この状況では仕方がない。
シャルロットが、なぜこのタイミングで現れたのか。彼女の目的はなんなのか。
(情報が欲しいわね)
傍らの小作人たちは、まるで幽霊でも見るかのように目を見開いて驚いている。中には、ガタガタと震えている人物すらいる。この様子では、シャルロットの存在を知っていた者はいないだろう。
ならば、他の場所でシャルロットのこと、そして新しいエルランジェ男爵のことを調べなければならない。
「シャルロット様。お屋敷にはエルランジェ男爵もいらしてるのではなくて?」
「え、ええ。執事にこちらだと聞きましたので、義父をお屋敷に待たせて私だけこちらにまいりましたの」
「ね? アーロン様。私でしたら大丈夫ですわ。馬もありますし」
迷った挙句、アーロンは渋々と頷いた。
屋敷でエルランジェ男爵が待っているとなれば、向かわざるを得ないだろう。
「――ゾフィ嬢、申し訳ございません。皆、続きは明日にしよう」
「へ、へぇ……」
帽子を取り、深々と頭を下げる小作人に、アーロンはねぎらいの言葉をかける。
だが、シャルロットはそんな小作人たちを見ることもなく、プイとそっぽを向いた。
「では、ごめんあそばせ」
シャルロットは馬車に乗り込む際、チラリとゾフィを見た。
勝ち誇ったような目をしている。
ゾフィはなにやら嫌な予感がした。
(作戦を練らなきゃね……)
アーロンの明るい金髪が朝日に輝き、まぶしい。このところは笑顔も増えた気がする。アルバンが言ったこともあながち勘違いではないかもしれない。
ゾフィがいることで、もしもアーロンが元気になっているのなら……そう考えただけでもとても嬉しい。自然と、ゾフィの表情もほころぶ。
ダミアンはゾフィの様子に、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
『おい、なんだ、この貧乏くせぇ場所は。まさか、今からアレを手伝うって言うんじゃねえだろうな?』
「手伝うに決まってるじゃない」
『おいっ……!』
「ちょっと、ダミアン。人間界の馬は喋らないのよ。黙っててよね」
『俺の言葉が人間にわかるわけないだろう!』
「それでも! 大人しくしてほしいのよ」
手袋を外し、指をダミアンの口に付ける。すると、抗議しようと開けた口が、ピタッと合わさる。
『む、むぐぐぐぐぐぐ……』
思うように口が開かない。
術で言葉を封じられたダミアンは不満げにゾフィを見るが、ゾフィはそれに構うことなく、近くの木にダミアンを繋いでしまった。
「アーロン様。おはようございます」
「ゾフィ嬢! おはようございます。今日も来てくださったのですか? 昨日は体調がすぐれないようでしたが……」
「ええ。もう大丈夫ですわ。とは言いましても、私が来たところであまり役には立たないのですけれど……」
そう言うと、ゾフィはしおらしく微笑んでみせた。
離れたところでは、ダミアンは鼻を鳴らしている。
本当はこっそり魔術を使って手伝っているのだが、そんなことはアーロンには言えない。
表向きはあちこちを見て回り、励ますくらいしかやることがないのだ。
「そんなことはありません。ゾフィ嬢の淹れてくれる紅茶はとても美味しいと、皆喜んでおります」
「まぁ……そんな……。私、使用人任せは好きではありませんの。それで覚えましたのよ。喜んでいただけて嬉しいですわ」
ほほほ。と笑いながら、心の中でガッツポーズをした。ジョルジュに教えてもらったかいがあったというものだ。
「そうなんですか……。うちの小作人にも気さくに声をかけてくださって……ゾフィ嬢は……とてもお優しい方ですね」
「まぁ……」
直接触れなければ魔術は使えない。気になっていた伯爵家のことを探るためにも、様々なところから情報を得なければならなかった。そのため、誰彼構わず近づき、話しかける。そして隙を見てそっと触れる。
それをアーロンたちにばれないようにやらなければならないのだから、一度に得る情報は少ない。容量の悪い、不便な体質だと思っていたのだが、まさかアーロンがそんなふうに勘違いをしているとは思わなかった。
「ここに療養に来て、私本当に容体が良くなりましたのよ。ですから少しでもお役に立ちたいのです」
ゾフィが控えめに微笑むと、アーロンはゾフィの手を取った。
(ああああああ! 手袋越しなのが悔しい! せっかくのチャンスなのに!)
「現場の空気もとても明るくなって、皆が張り切っております」
「まぁ……。それは、アーロン様もでございますか?」
ゾフィの言葉に、アーロンが目を泳がせる。
すると、慌ててゾフィの手を離した。
「あっ……これは、失礼いたしました。柵の修理で汚れている手で、あなたの手を取るなど……。手袋を汚してしまいました」
そんなアーロンに業を煮やしたのか、アルバンが口を開いた。
「一番張り切っておいでなのは若さまで」
「えっ?」
「おい、こら。アルバン!」
アーロンが顔を赤らめてアルバンをたしなめる。
「確かに。ゾフィ様がおられると、若さまの仕事もはかどるってもんで」
他の小作人もアルバンの意見に賛同した。
最近は、果樹園の仕事も忙しくなったこともあって、領地に戻ってきた者もいる。
「まぁ。私もアーロン様のお役に立っていて?」
「そりゃ勿論で。ねえ? 若さま。ゾフィ様はまるでこの領地に現れた女神様ではないですか」
(あらら、女神だなんて……本当は魔族なのに?)
思わず苦笑がこぼれ、ゾフィは慌てて手で口元を隠した。
小作人たちの言葉に、アーロンもしどろもどろだ。
「いや、その……あの……。ええ、本当に。助かっています。あの……僕たちが、今こうして前に向かって進んでいけるのは、ゾフィ嬢のおかげなんですよ」
「若さま。良い方がいらっしゃいましたなあ」
「か、からかうんじゃない! お困りではないか。ゾフィ嬢は療養中なのだ。ゾフィ嬢、来てくださるのはとても嬉しいのですが、あまりご無理はなさらないでください。皆、心配します」
「皆が……アーロン様も、ですの?」
「……ええ」
少しはにかみながら答えるアーロンの姿に、ゾフィは喜びで飛び上がりそうだった。
まさか、こんな言葉をもらえるとは思っていなかった。
ダミアンがしきりに鼻を鳴らしているが、知ったことではない。ゾフィは幸せでいっぱいだった。
そんな和やかな雰囲気の果樹園に、ガラガラと大きな音が聞こえた。
近くの農道を大きな馬車が音を立てて走っている。
農道は整備されておらず、馬車も苦戦しているようで時折大きく揺れた。あれでは乗っている方も大変だろう。
「どなただろう……。今日は訪問者の予定はないのですが……」
怪訝な顔をして馬車を見るアーロンの目が、次の瞬間、驚きに見開いた。
「どうなさいましたの?」
「……エルランジェ男爵家の……紋章が……」
絞り出すような小さな声に、ゾフィもまた驚き、馬車を見つめる。
エルランジェ男爵家――アーロンの元婚約者の名だ。
当主が変わり、それからは付き合いがないと聞いていたが、一体なんの用だろう。
ゾフィも少し身構え、馬車が通りすぎるのを待つ。だが、馬車は果樹園の入口にピタリと止まった。
先ほどまで和気藹々としていたのが嘘のように、皆が息を飲んで馬車に注目している。
すると、御者の手を借りて降りてきたのは、意外な人物だった。
「ルーチェ……」
放心したように立ち尽くすアーロンが、小さく呟いたのは、亡き婚約者の名だ。
ゾフィもまた驚きを隠せなかった。馬車を降り、こちらに向かってくるのは、まぎれもなくあの日見たルーチェ・エルランジェだった。
人形のように整った小さな顔は柔らかな微笑みをたたえ、明るい金髪の髪はふわふわと風に揺れ、日差しに輝いている。華奢な体はレースをふんだんに使った淡い青色のドレスが包み込み、その姿はまるで天使のように儚げで可憐な少女だった。
少女はまっすぐアーロンに向かって歩いてくる。
アーロンはそれを、茫然と見つめていた。
少女はそんなアーロンの前で歩を停めると、裾を持ち上げて優雅に腰をおとした。
「お久しぶりでございます。アーロンお兄様」
「ルーチェ……」
頭を上げた少女はアーロンをひたと見つめる。
だが、その瞳は慈愛に満ちたルーチェのものとは違い、とても冷たいものだった。
口角が上がり、微笑みを貼りつけてはいるものの、その目はまるで笑っていない。
皆が動揺している中、それに気づいたのはゾフィだけのようだった。
「嫌ですわ……。お忘れですか? 私はシャルロットですわ。ルーチェの……双子の妹です」
「双子?」
アーロンは混乱する頭で、なんとか思い出そうと過去に思いを巡らせた。
ぼんやりと蘇る記憶の中、とある光景が蘇る。
昔、まだアーロンもルーチェも幼かった頃、花畑で花冠をつくっているルーチェの横で、同じように花冠を作っている少女がいた。
その姿はルーチェにとてもよく似ている。
ただ、性格は正反対なようで、丁寧にゆっくりと作るルーチェとは違い、シャルロットは少し乱暴な手つきで所々花が潰れていた。心配そうに見るアーロンの前で、また花びらが千切れてハラハラとこぼれ落ちる。
「シャルロット。それではお花が可哀想だわ」
見かねたルーチェが手ほどきしようとすると、シャルロットと呼ばれた少女はふてくされ、途中までこしらえた花冠を放り投げてしまった。
「私、こういうの得意じゃないの。それなのに、ルーチェはアーロンお兄様の前でそんなこと言うのね。意地悪だわ」
「ごめんなさいシャルロット……」
悲しそうに顔を歪ませ、ルーチェはシャルロットの花冠を拾い上げた。
シャルロットはそのまま駆け出し、ルーチェの兄、エリクに抱きついた。
エリクは困った顔をするが、そのままシャルロットを抱き上げる。そして悲しそうにこちらをじっと見ていたルーチェに微笑むと、軽く頷いてルーチェからシャルロットを遠ざけるように歩き出した。
再びアーロンの隣に腰を下ろしたルーチェは、シャルロットの花冠を丁寧に解いていく。
「シャルロットは、うまく作れずに悲しかったんだよ」
「私、シャルロットと仲良く遊びたかっただけなの……。ごめんね、ごめんね、お花さん」
涙を浮かべ、丁寧な手つきで作り直すルーチェを、アーロンは励まし、手伝った。
シャルロットと呼ばれた少女は、軍服を来た紳士が迎えにくると、エリクの手を握りしめ離れようとしなかった。
「お父様。私もお兄様が欲しいわ。どうしてシャルロットはひとりぼっちなの?」
「おお、シャルロット。私の天使。そんなことを言わないでおくれ。さあ、お家へ帰ろう。お母様も待っているぞ? 帰りにお前の好きなケーキを買ってあげよう」
泣いてぐずるシャルロットを、紳士がなんとかなだめる。
「ケーキだけじゃ嫌! すぐになくなっちゃうもの。シャルロットと一緒に遊んでくれないもの!」
「そ、そうだね。じゃあ、ケーキの他に、お人形も買ってあげよう。シャルロットのお友達だよ」
「お人形? お父様、本当に?」
「ああ。本当だとも。男の子がいいかな? それとも女の子?」
「男の子がいいわ。エリクお兄様や、アーロンお兄様のような、優しくてシャルロットだけの王子様が欲しいの!」
ようやく泣き止んだシャルロットを優しく抱き上げると、紳士は帰って行った。
幼い頃、数回そんな光景を目にしたことがある。
ルーチェを失ったあの日、会っているはずなのだが、こんなにもルーチェに似ているなんて思わなかった……。
双子ならばそれも当然だろうが、離れて暮らしていても、ここまで似るものだろうか?
ルーチェと過ごした日々が、昨日のことのようにアーロンに襲い掛かった。
アーロンはやっとのことで、声を絞り出した。
「……覚えているよ……。ルーチェの、双子の妹だったのだね」
「ええ。私は幼い頃、子供のいなかった叔父に養子に出されましたの。ですが、叔父は騎士でしたから、王都近くで暮らしておりました」
記憶の中のあの紳士は、男爵の弟だったのだ。
騎士であるなら、たまにしか姿を見せなかったことも頷けた。
「そうですか……。では、現在エルランジェ男爵家にはその叔父上が?」
「ええ……。エリクお兄様もお亡くなりになり、お義父さまに継承権が……。私も、戻ってまいりましたの。やっと落ち着きましたので、今日はそのご挨拶に……でも、お忙しかったでしょうか?」
その言葉に、アーロンは首を横に振った。
「いいえ、構いませんよ。それにしても……立派な馬車で驚きました」
「以前の男爵家の馬車は、事故で壊れてしまいましたので」
「ああ……そうですね」
「色々と、変わっていくのですわ。……アーロンお兄様もそうなのではなくて?」
シャルロットはチラリとゾフィに目を向けた。
その意味ありげな視線に、アーロンは体をこわばらせる。
「こちらは、オルガディア王国のゾフィ・アンベール侯爵令嬢です。療養のため、セラーノに滞在中なのです」
「まあ、そうでしたの。私はてっきり、アーロンお兄様がルーチェをお忘れになったのかと……大変失礼いたしました」
驚いたように両手を口の前で合わせてはいるが、チラリと見える唇は弧を描いていた。
(この女……なにを企んでいるの?)
ゾフィはシャルロットの仕草に、なんともいえない嫌な空気を感じた。
「いいえ。アーロン様にはとてもお世話になっておりますのよ。そんなに責めるようなことをおっしゃらないで? アーロン様、どうやら今日はお約束があったようですわね」
「え? いえ……今日は来客の予定はなかったのですが……」
「そんな……貴族のご令嬢がお約束もなしに突然、ご自分より上位の貴族のお屋敷に訪ねていらっしゃるなんて……。そんな失礼なことあり得ませんわ。きっと、アーロン様がお忘れでしたのよ」
ゾフィの言葉に、シャルロットは顔を赤らめて睨み付けた。
それを言うなら、ゾフィも連絡なしで突撃訪問することがあるが、そこは他国とはいえ目上の侯爵令嬢ということで目を瞑って欲しい。
(まぁ、私は偽物だけどね)
それにしても、こうして見ると、改めてシャルロットはルーチェと似ているようで全然違うことが分かる。
だが、ルーチェそっくりなシャルロットの登場に、アーロンは激しく動揺しているようだった。
「アーロン様。お顔色がすぐれませんわ。お屋敷にお戻りになられては?」
「いや、ですが……」
ゾフィの勧めにも、アーロンは渋ってなかなか返事をしない。
他国の侯爵令嬢であるゾフィを置いたまま、この場を離れることができないのだろう。
ゾフィにしても、シャルロットと一緒に行かせるのは嫌だったが、この状況では仕方がない。
シャルロットが、なぜこのタイミングで現れたのか。彼女の目的はなんなのか。
(情報が欲しいわね)
傍らの小作人たちは、まるで幽霊でも見るかのように目を見開いて驚いている。中には、ガタガタと震えている人物すらいる。この様子では、シャルロットの存在を知っていた者はいないだろう。
ならば、他の場所でシャルロットのこと、そして新しいエルランジェ男爵のことを調べなければならない。
「シャルロット様。お屋敷にはエルランジェ男爵もいらしてるのではなくて?」
「え、ええ。執事にこちらだと聞きましたので、義父をお屋敷に待たせて私だけこちらにまいりましたの」
「ね? アーロン様。私でしたら大丈夫ですわ。馬もありますし」
迷った挙句、アーロンは渋々と頷いた。
屋敷でエルランジェ男爵が待っているとなれば、向かわざるを得ないだろう。
「――ゾフィ嬢、申し訳ございません。皆、続きは明日にしよう」
「へ、へぇ……」
帽子を取り、深々と頭を下げる小作人に、アーロンはねぎらいの言葉をかける。
だが、シャルロットはそんな小作人たちを見ることもなく、プイとそっぽを向いた。
「では、ごめんあそばせ」
シャルロットは馬車に乗り込む際、チラリとゾフィを見た。
勝ち誇ったような目をしている。
ゾフィはなにやら嫌な予感がした。
(作戦を練らなきゃね……)