悪の華は恋を廻る
馬車を見送った後、ゾフィもまた、残された小作人たちひとりひとりに声をかける。
皆、不安そうな顔をしていた。中でも、アルバンは先ほどからガタガタと震えている。
シャルロットがあまりにもルーチェに似ているため、驚いたのだろうと思ったのだが、馬車が去った後も変わらない。
(なにか、知っているのかしら?)
「アルバン、手を貸してくれるかしら?」
ゾフィに呼ばれ、アルバンは弾かれたように顔を上げた。
「へ、へえ。ただいま!」
ゾフィは手袋を脱ぎ、アルバンの枯れ木のような手に自らの手を乗せた。
指先から、アルバンの感情が伝わってくる。
驚き、不安、怯え。
様々な感情が一気に流れてきた。
「アルバン。シャルロット様をご存じなの?」
「い、いえ……。ワシは、そんな……」
ブルブルと忙しく首を振る。
ゾフィが尋ねると、手から伝わってくる様々な感情は、怯えが最も多くなった。
「アーロン様の婚約者だったルーチェ様に似ていらっしゃったから?」
アルバンの怯えは、ルーチェの名前を出した時に最高潮に達した。
「に、似て……い、いや……まさか、ルーチェ様が」
「アルバン、しっかりしてちょうだい。ルーチェ様はお亡くなりになったの。あの方は、ルーチェ様によく似ているけれど、別人よ」
「そ、そうだ……。あの時、ルーチェ様は……冷たい、川の中で……」
アルバンの焦点が合わない目は、過去を見ているのだろうか?
ルーチェの家族は、馬車の事故で亡くなったと聞いている。それはアルバンも勿論知っていることだ。だが、アルバンの今の口調は、まるで実際に見たかのようだった。
「アルバン? 私、あなたに話したわね? アーロン様のお役に立ちたいって。アルバン、私に教えてくれない? あなたはなにを知っているの?」
指先に、ほんの少し念を送り込む。
熱を持った指先から、スーーっと熱が移動していくのが分かる。移動先は勿論、アルバンだ。
その途端、後ろにいるダミアンが鼻をブルルルッを鳴らしたが、知ったことではない。
(言葉を封じておいて良かったわ。集中できないところだった)
「ご結婚が決まり……男爵家の皆さまが伯爵家を訪れました……。お食事を共にし、国王陛下へのご報告や、式の段取りを……決めるのだと……若さまは話しておりました。その夜……お帰りの際、馬車が……橋から落ちてしもうて……川に……。ワシの家は……橋の近くで……大きな音に驚いて、すぐ駆け付けました……。ですが、馬車はバラバラに……綱から逃れようと馬も暴れて、なかなか、現場に近づけないうちに……徐々に流されて……」
当時の光景が蘇ったのか、涙を浮かべた顔は真っ青だ。唇は震え、言葉は途切れ途切れになり、聞き取り辛い。
ゾフィは根気強くアルバンに声をかけ、話の先を促した。
「そう。それは大変だったのね。それで?」
「段々、人が集まって……なんとか馬を落ち着かせて……手分けして男爵家の皆さんを、探しました……。そしたら、ワシが向かった下流で、木の枝に引っかかって……き、綺麗なドレスを着たルーチェ様が……。まだ息はあったです。力のない目で、ワシを見て、青くなった口を……パクパクさせて……けんど、その夜の内に……」
アルバンの目から、涙が一粒流れた。
「……ごめんなさいね。辛い出来事を、思い出させたわね。最後にひとつだけ、聞かせてくれない? ルーチェ様は、アルバンを見て、なんと言ったの?」
「小さな声で、御者の名を……」
「御者の……? 他にはなにか言わなかった?」
アルバンがカタカタと壊れた人形のように、小刻みに首を振る。
最期に呟いたのが、御者の名前? ゾフィはそれが少し引っかかった。
「あと、何か思い出せるかしら?」
「ち、近くに、御者が……。ルーチェ様と同じように木に引っかかっておって……そいつはヒクヒクと痙攣しておったんです。じゃが、ルーチェ様を先に引き上げてるうちに息を引き取りました」
「……ありがとう。よく話してくれたわね」
生活が苦しくてもアルバンがアーロンのそばから離れないのは、この光景が忘れられないからかもしれないと、ゾフィは思った。
川の中で凍えるルーチェと、一瞬のうちに愛する女性を失ったアーロンを見捨てることが出来なかったのだ。
(ほんと、お人よしね)
そんなアルバンには、ルーチェそっくりの容貌をしたシャルロットが登場したことは、衝撃的なできごとだっただろう。
「少し。ほんの少しだけよ。あなたの傷を、治してあげるわ」
「ゾフィ、様?」
手のひらを、アルバンの涙で濡れた頬に押し当てる。
「あなたは、ルーチェを助けようと頑張ったわ。そして、そのことを、アーロン様はよくわかってらっしゃる」
新たな涙がアルバンの目から零れる。その後、ゆっくりと瞼を閉じ、再び開いた時、アルバンはひとりで果樹園の木に寄りかかっていた。
「あ、あれ? ゾフィ様……おや?」
パチパチと瞬きを繰り返したアルバンの目には、力が戻っていた。
『やり過ぎだ!』
「うるさいわね。そんなこと聞くために、術を解いたわけじゃないのよ」
ダミアンの背に揺られながら、ゾフィは身体のだるさと戦っていた。
術を解いた瞬間から、ダミアンはガウガウとうるさい。
「こうなった時のために、ついてきたんでしょ」
『違うっ!!』
「やってしまったことは仕方ないじゃない。私だって、ここまですることになるとは思っていなかったわ。意外な登場人物のせいよ」
『あの女か』
ダミアンが、さも嫌そうに返事をする。
「どう思った?」
『嫌な臭いだ』
「ダミアン?」
『お嬢さん。あいつは危ない』
「そう……。簡単にはいかないってことね」
ダミアンは獣人族ということもあり、魔族の中でも鼻が利く。そのダミアンが言うのだから、シャルロットには何かあるのだろう。
「あとで……シャルロットを探ってもらえる?」
『それがお嬢さんのご命令なら』
ゾフィはダミアンの首元を撫でた。
「……命令よ」
* * *
シャルロットは領地に戻ってからもイライラと落ち着かない様子で、部屋の中を歩きまわっていた。
「ああ……イライラする! どうして皆、私を選ばないの? どうして!!」
どうして、ルーチェでなければならなかったのか。
どうして、シャルロットではいけないのか?
同じ日に生まれた、同じ顔の、同じ女の子なのに!
その思いは幼い頃からシャルロットを苦しめてきた。
大きなお屋敷に、優しい両親と兄。たくさんの使用人。そして、家族ぐるみで育った伯爵家の跡取り。
一緒に生まれたはずなのに、そのどれもがシャルロットの手にはなかった。
男爵家の次男だった義父は、騎士としては有能だったが家庭を顧みることのない仕事人間だった。
シャルロットを引き取ったのも、仕事の間、ひとり家に取り残される妻のためであった。
それもあってか、義母のシャルロットへの執着は凄まじいものがあった。
ろくに友人も作れず、義母の機嫌を伺う日々。
シャルロットが外に出ることをなによりも嫌ったため、男爵家にもなかなか行くことができなかった。
たまに休暇で帰ってきた義父に連れられ男爵家に行くと、そこには家族の愛情に包まれて育った純粋なルーチェがいた。
目を細め穏やかな表情で話を聞く父親。優しく抱きしめる母親。幼い妹のやることを微笑んで見守る兄。「お嬢様」と呼び、あれこれ世話を焼く使用人。
全員が笑顔でルーチェを囲んでいた。
顔は一緒なのに。どうしてそこにいるのは私ではないの?
シャルロットは、欲しいものを与えることが愛情だと思っている留守がちの父と、常に見張っていて失敗には体罰を繰り返す母しか知らない。
シャルロットが男爵家にやって来ると、ルーチェはいつも嬉しそうに手を差し伸べる。
シャルロットもまた、笑顔でその手を取る。
だが、心の中ではルーチェへの嫉妬心が増すばかりだった。
ある年、やはり義父に連れられて男爵家へ行った時だった。
義父は突然やって来ては、攫うようにシャルロットを連れ男爵家へと行く。
今思えば、それは自身が仕事で大きな成果を上げた時だった。
流行の最新の服をシャルロットに着せ、自分自身はキラキラと輝く勲章をつけての仰々しい帰省だ。
騎士として生きなければならなかった自分が今、いかに国のために役に立っているか。自分の成功を当主である兄に話すのが、義父の生きがいだった。義父は、伯爵のことを決して嫌いだったわけではない。むしろ、仲はいい方だと思う。それでも、貴族として生まれながら、貴族でいられない感情は劣等感として残る。シャルロットは、武勲を自慢げに話す義父の姿に自分を見るようだった。
義父の思惑に気づいているのかいないのか、男爵夫妻はいつも笑顔で迎えてくれた。
ルーチェもまた、嬉しそうにシャルロットに近寄って来る。そして、とびきりの笑顔で「いらっしゃい。シャルロット。遊ぼう」と言うのだ。
いつものように差し出されたルーチェの手を取ったシャルロットは、その日、思わずルーチェの手を離してしまった。
驚いたルーチェの前で、シャルロットは曖昧に笑うと、手を後ろに隠した。
ふたりの手が、あまりにも違っていたから。
ルーチェの手はしっとりとしていて、爪も綺麗に手入れされ傷のひとつもないものだった。シャルロットが改めて自分の手を見ると、指先はガサガサで所々には傷がある。いずれは必要になるからと、お針子の修行を母に言いつけられたからだった。
やっと母の目の行き届かない場所に行けると、それが嬉しくて辛い作業もなんとかこなした。
昔から手先は器用ではない。時間は人の二倍はかかったし、手を傷つけてしまうこともしょっちゅうだった。
突然手を離され、驚いて自分を見つめるルーチェに、手を怪我しているからと誤魔化した。
だが、ひとつ気づいてしまえば、またひとつ気にかかる。
毛先までしっとりとし、艶がある金髪。
レースをふんだんに使った贅沢なドレス。
首に飾られた見事なアクセサリー。
ただ座るというその仕草まで優雅で、なにもかもが自分と違う。
顔は、一緒なのに。
父も母も、兄も一緒なのに。
いつからこうも差がついてしまったのか。
気づかないうちに、その差は歴然としたものになっていた。
ルーチェに向けられていた嫉妬心は、徐々に憎しみに変わっていった。
そんな中告げられた、ルーチェの婚約話。
相手はシャルロットも知っている人物――ブランシャール伯爵家の後継者の、アーロンだという。
時折会う彼は、とても優しい明るい笑顔で、内気で大人しいルーチェを上手にフォローしていた。そんな完璧な王子様のような男の子がルーチェと……。
シャルロットの身体に、衝撃が走った。
ルーチェが婚約――伯爵家に、嫁ぐ?
益々、自分と差がついてしまうではないか。
いずれは、シャルロットもルーチェも誰かと結婚するのだとわかっていた。
そして、それは世間と同じ、親が決めた政略結婚だと思っていた。
だが、蓋を開けてみればどうだ。エルランジェ男爵家とブランシャール伯爵家は、領地が隣り合った家族ぐるみの仲だ。ルーチェとアーロンの仲を見れば、ただの政略結婚ではないと分かる。ふたりが憎からず想い合っていることは、一目瞭然だった。
憎しみが猛烈に体の中を駆け巡った。
(どうして、どうして、どうして!?)
怒りのあまり、ぎゅっと握りしめた拳は、プルプルと震えた。
貴族の令嬢としての立場も、優しい家族に素敵な婚約者も、伯爵夫人としての明るい未来も。
(私であってもおかしくないのに! どうして、どうしていつもいつも、選ばれるのはルーチェなの?)
修行をしている工房で、ある薬品が目に入ったのはそんな時だった。
糸の染色に使うものだと、工房の先輩が教えてくれたそれは、小さな瓶にはいった水色の液体だった。
「劇薬だから、絶対に素手で触っちゃだめよ」
そう言われた時、ついシャルロットはその綺麗な液体を目で追ってしまった。
水に液体を混ぜ、糸を三日間漬け置くと、糸に色が定着するのだそうだ。
よほど怖い表情をしていたのだろうか。シャルロットの顔を見たその先輩が「大丈夫」と手を振って笑った。
「もしも触ったり、飲んでしまったらすぐに洗うか、たくさんの水を飲みなさい。即効性はないし、水で薄まればそう効果はないから」
「そう……ですか。でも、怖いですね」
「いつか扱いにも慣れるわ」
美しい黒髪を耳にかけると、先輩は意味ありげに唇の前で、白く美しい人差し指を立てた。
「絶対、触っちゃダメよ」
特徴的なふっくらとした赤い唇が弧を描く。シャルロットは、その仕草から目を離せなかった。その時、シャルロットの視界に光るものが目に入った。
「――蝶?」
どこから紛れ込んだのか、一羽の蝶がひらり、ひらりと舞っている。
工房のあちこちに吊り下がっているランプの灯りのせいか、蝶はまるで燃えているように光って見えた。
こんな時期に珍しい。そう思いながら、シャルロットの目はぼんやりと蝶を追う。
「あら、本当。どこから紛れ込んだのかしら」
そう言いながらも、先輩は特に驚いた様子もなかった。
「さ、もう時間よ。今日はもう帰りましょう」
小瓶は、シャルロットの目の前で戸棚の奥に仕舞われた。
いつの間にか、蝶はいなくなっていた。
それからしばらく、シャルロットもその小瓶の存在を忘れていた。
だが、ルーチェの正式に結婚が決まり、親族として伯爵家へ赴くことになった。ルーチェが伯爵家に嫁いでしまっては、姉妹とはいえ、なかなか会える機会がなくなるのだと言う。義父の口からそう聞かされると、悔しさで涙が出た。
これからは、伯爵夫人とお針子の関係になるのだと、突き付けられた気がした。
その翌日、シャルロットは気がつかないうちに、戸棚の奥の小瓶を自分の鞄に忍ばせていた。
皆、不安そうな顔をしていた。中でも、アルバンは先ほどからガタガタと震えている。
シャルロットがあまりにもルーチェに似ているため、驚いたのだろうと思ったのだが、馬車が去った後も変わらない。
(なにか、知っているのかしら?)
「アルバン、手を貸してくれるかしら?」
ゾフィに呼ばれ、アルバンは弾かれたように顔を上げた。
「へ、へえ。ただいま!」
ゾフィは手袋を脱ぎ、アルバンの枯れ木のような手に自らの手を乗せた。
指先から、アルバンの感情が伝わってくる。
驚き、不安、怯え。
様々な感情が一気に流れてきた。
「アルバン。シャルロット様をご存じなの?」
「い、いえ……。ワシは、そんな……」
ブルブルと忙しく首を振る。
ゾフィが尋ねると、手から伝わってくる様々な感情は、怯えが最も多くなった。
「アーロン様の婚約者だったルーチェ様に似ていらっしゃったから?」
アルバンの怯えは、ルーチェの名前を出した時に最高潮に達した。
「に、似て……い、いや……まさか、ルーチェ様が」
「アルバン、しっかりしてちょうだい。ルーチェ様はお亡くなりになったの。あの方は、ルーチェ様によく似ているけれど、別人よ」
「そ、そうだ……。あの時、ルーチェ様は……冷たい、川の中で……」
アルバンの焦点が合わない目は、過去を見ているのだろうか?
ルーチェの家族は、馬車の事故で亡くなったと聞いている。それはアルバンも勿論知っていることだ。だが、アルバンの今の口調は、まるで実際に見たかのようだった。
「アルバン? 私、あなたに話したわね? アーロン様のお役に立ちたいって。アルバン、私に教えてくれない? あなたはなにを知っているの?」
指先に、ほんの少し念を送り込む。
熱を持った指先から、スーーっと熱が移動していくのが分かる。移動先は勿論、アルバンだ。
その途端、後ろにいるダミアンが鼻をブルルルッを鳴らしたが、知ったことではない。
(言葉を封じておいて良かったわ。集中できないところだった)
「ご結婚が決まり……男爵家の皆さまが伯爵家を訪れました……。お食事を共にし、国王陛下へのご報告や、式の段取りを……決めるのだと……若さまは話しておりました。その夜……お帰りの際、馬車が……橋から落ちてしもうて……川に……。ワシの家は……橋の近くで……大きな音に驚いて、すぐ駆け付けました……。ですが、馬車はバラバラに……綱から逃れようと馬も暴れて、なかなか、現場に近づけないうちに……徐々に流されて……」
当時の光景が蘇ったのか、涙を浮かべた顔は真っ青だ。唇は震え、言葉は途切れ途切れになり、聞き取り辛い。
ゾフィは根気強くアルバンに声をかけ、話の先を促した。
「そう。それは大変だったのね。それで?」
「段々、人が集まって……なんとか馬を落ち着かせて……手分けして男爵家の皆さんを、探しました……。そしたら、ワシが向かった下流で、木の枝に引っかかって……き、綺麗なドレスを着たルーチェ様が……。まだ息はあったです。力のない目で、ワシを見て、青くなった口を……パクパクさせて……けんど、その夜の内に……」
アルバンの目から、涙が一粒流れた。
「……ごめんなさいね。辛い出来事を、思い出させたわね。最後にひとつだけ、聞かせてくれない? ルーチェ様は、アルバンを見て、なんと言ったの?」
「小さな声で、御者の名を……」
「御者の……? 他にはなにか言わなかった?」
アルバンがカタカタと壊れた人形のように、小刻みに首を振る。
最期に呟いたのが、御者の名前? ゾフィはそれが少し引っかかった。
「あと、何か思い出せるかしら?」
「ち、近くに、御者が……。ルーチェ様と同じように木に引っかかっておって……そいつはヒクヒクと痙攣しておったんです。じゃが、ルーチェ様を先に引き上げてるうちに息を引き取りました」
「……ありがとう。よく話してくれたわね」
生活が苦しくてもアルバンがアーロンのそばから離れないのは、この光景が忘れられないからかもしれないと、ゾフィは思った。
川の中で凍えるルーチェと、一瞬のうちに愛する女性を失ったアーロンを見捨てることが出来なかったのだ。
(ほんと、お人よしね)
そんなアルバンには、ルーチェそっくりの容貌をしたシャルロットが登場したことは、衝撃的なできごとだっただろう。
「少し。ほんの少しだけよ。あなたの傷を、治してあげるわ」
「ゾフィ、様?」
手のひらを、アルバンの涙で濡れた頬に押し当てる。
「あなたは、ルーチェを助けようと頑張ったわ。そして、そのことを、アーロン様はよくわかってらっしゃる」
新たな涙がアルバンの目から零れる。その後、ゆっくりと瞼を閉じ、再び開いた時、アルバンはひとりで果樹園の木に寄りかかっていた。
「あ、あれ? ゾフィ様……おや?」
パチパチと瞬きを繰り返したアルバンの目には、力が戻っていた。
『やり過ぎだ!』
「うるさいわね。そんなこと聞くために、術を解いたわけじゃないのよ」
ダミアンの背に揺られながら、ゾフィは身体のだるさと戦っていた。
術を解いた瞬間から、ダミアンはガウガウとうるさい。
「こうなった時のために、ついてきたんでしょ」
『違うっ!!』
「やってしまったことは仕方ないじゃない。私だって、ここまですることになるとは思っていなかったわ。意外な登場人物のせいよ」
『あの女か』
ダミアンが、さも嫌そうに返事をする。
「どう思った?」
『嫌な臭いだ』
「ダミアン?」
『お嬢さん。あいつは危ない』
「そう……。簡単にはいかないってことね」
ダミアンは獣人族ということもあり、魔族の中でも鼻が利く。そのダミアンが言うのだから、シャルロットには何かあるのだろう。
「あとで……シャルロットを探ってもらえる?」
『それがお嬢さんのご命令なら』
ゾフィはダミアンの首元を撫でた。
「……命令よ」
* * *
シャルロットは領地に戻ってからもイライラと落ち着かない様子で、部屋の中を歩きまわっていた。
「ああ……イライラする! どうして皆、私を選ばないの? どうして!!」
どうして、ルーチェでなければならなかったのか。
どうして、シャルロットではいけないのか?
同じ日に生まれた、同じ顔の、同じ女の子なのに!
その思いは幼い頃からシャルロットを苦しめてきた。
大きなお屋敷に、優しい両親と兄。たくさんの使用人。そして、家族ぐるみで育った伯爵家の跡取り。
一緒に生まれたはずなのに、そのどれもがシャルロットの手にはなかった。
男爵家の次男だった義父は、騎士としては有能だったが家庭を顧みることのない仕事人間だった。
シャルロットを引き取ったのも、仕事の間、ひとり家に取り残される妻のためであった。
それもあってか、義母のシャルロットへの執着は凄まじいものがあった。
ろくに友人も作れず、義母の機嫌を伺う日々。
シャルロットが外に出ることをなによりも嫌ったため、男爵家にもなかなか行くことができなかった。
たまに休暇で帰ってきた義父に連れられ男爵家に行くと、そこには家族の愛情に包まれて育った純粋なルーチェがいた。
目を細め穏やかな表情で話を聞く父親。優しく抱きしめる母親。幼い妹のやることを微笑んで見守る兄。「お嬢様」と呼び、あれこれ世話を焼く使用人。
全員が笑顔でルーチェを囲んでいた。
顔は一緒なのに。どうしてそこにいるのは私ではないの?
シャルロットは、欲しいものを与えることが愛情だと思っている留守がちの父と、常に見張っていて失敗には体罰を繰り返す母しか知らない。
シャルロットが男爵家にやって来ると、ルーチェはいつも嬉しそうに手を差し伸べる。
シャルロットもまた、笑顔でその手を取る。
だが、心の中ではルーチェへの嫉妬心が増すばかりだった。
ある年、やはり義父に連れられて男爵家へ行った時だった。
義父は突然やって来ては、攫うようにシャルロットを連れ男爵家へと行く。
今思えば、それは自身が仕事で大きな成果を上げた時だった。
流行の最新の服をシャルロットに着せ、自分自身はキラキラと輝く勲章をつけての仰々しい帰省だ。
騎士として生きなければならなかった自分が今、いかに国のために役に立っているか。自分の成功を当主である兄に話すのが、義父の生きがいだった。義父は、伯爵のことを決して嫌いだったわけではない。むしろ、仲はいい方だと思う。それでも、貴族として生まれながら、貴族でいられない感情は劣等感として残る。シャルロットは、武勲を自慢げに話す義父の姿に自分を見るようだった。
義父の思惑に気づいているのかいないのか、男爵夫妻はいつも笑顔で迎えてくれた。
ルーチェもまた、嬉しそうにシャルロットに近寄って来る。そして、とびきりの笑顔で「いらっしゃい。シャルロット。遊ぼう」と言うのだ。
いつものように差し出されたルーチェの手を取ったシャルロットは、その日、思わずルーチェの手を離してしまった。
驚いたルーチェの前で、シャルロットは曖昧に笑うと、手を後ろに隠した。
ふたりの手が、あまりにも違っていたから。
ルーチェの手はしっとりとしていて、爪も綺麗に手入れされ傷のひとつもないものだった。シャルロットが改めて自分の手を見ると、指先はガサガサで所々には傷がある。いずれは必要になるからと、お針子の修行を母に言いつけられたからだった。
やっと母の目の行き届かない場所に行けると、それが嬉しくて辛い作業もなんとかこなした。
昔から手先は器用ではない。時間は人の二倍はかかったし、手を傷つけてしまうこともしょっちゅうだった。
突然手を離され、驚いて自分を見つめるルーチェに、手を怪我しているからと誤魔化した。
だが、ひとつ気づいてしまえば、またひとつ気にかかる。
毛先までしっとりとし、艶がある金髪。
レースをふんだんに使った贅沢なドレス。
首に飾られた見事なアクセサリー。
ただ座るというその仕草まで優雅で、なにもかもが自分と違う。
顔は、一緒なのに。
父も母も、兄も一緒なのに。
いつからこうも差がついてしまったのか。
気づかないうちに、その差は歴然としたものになっていた。
ルーチェに向けられていた嫉妬心は、徐々に憎しみに変わっていった。
そんな中告げられた、ルーチェの婚約話。
相手はシャルロットも知っている人物――ブランシャール伯爵家の後継者の、アーロンだという。
時折会う彼は、とても優しい明るい笑顔で、内気で大人しいルーチェを上手にフォローしていた。そんな完璧な王子様のような男の子がルーチェと……。
シャルロットの身体に、衝撃が走った。
ルーチェが婚約――伯爵家に、嫁ぐ?
益々、自分と差がついてしまうではないか。
いずれは、シャルロットもルーチェも誰かと結婚するのだとわかっていた。
そして、それは世間と同じ、親が決めた政略結婚だと思っていた。
だが、蓋を開けてみればどうだ。エルランジェ男爵家とブランシャール伯爵家は、領地が隣り合った家族ぐるみの仲だ。ルーチェとアーロンの仲を見れば、ただの政略結婚ではないと分かる。ふたりが憎からず想い合っていることは、一目瞭然だった。
憎しみが猛烈に体の中を駆け巡った。
(どうして、どうして、どうして!?)
怒りのあまり、ぎゅっと握りしめた拳は、プルプルと震えた。
貴族の令嬢としての立場も、優しい家族に素敵な婚約者も、伯爵夫人としての明るい未来も。
(私であってもおかしくないのに! どうして、どうしていつもいつも、選ばれるのはルーチェなの?)
修行をしている工房で、ある薬品が目に入ったのはそんな時だった。
糸の染色に使うものだと、工房の先輩が教えてくれたそれは、小さな瓶にはいった水色の液体だった。
「劇薬だから、絶対に素手で触っちゃだめよ」
そう言われた時、ついシャルロットはその綺麗な液体を目で追ってしまった。
水に液体を混ぜ、糸を三日間漬け置くと、糸に色が定着するのだそうだ。
よほど怖い表情をしていたのだろうか。シャルロットの顔を見たその先輩が「大丈夫」と手を振って笑った。
「もしも触ったり、飲んでしまったらすぐに洗うか、たくさんの水を飲みなさい。即効性はないし、水で薄まればそう効果はないから」
「そう……ですか。でも、怖いですね」
「いつか扱いにも慣れるわ」
美しい黒髪を耳にかけると、先輩は意味ありげに唇の前で、白く美しい人差し指を立てた。
「絶対、触っちゃダメよ」
特徴的なふっくらとした赤い唇が弧を描く。シャルロットは、その仕草から目を離せなかった。その時、シャルロットの視界に光るものが目に入った。
「――蝶?」
どこから紛れ込んだのか、一羽の蝶がひらり、ひらりと舞っている。
工房のあちこちに吊り下がっているランプの灯りのせいか、蝶はまるで燃えているように光って見えた。
こんな時期に珍しい。そう思いながら、シャルロットの目はぼんやりと蝶を追う。
「あら、本当。どこから紛れ込んだのかしら」
そう言いながらも、先輩は特に驚いた様子もなかった。
「さ、もう時間よ。今日はもう帰りましょう」
小瓶は、シャルロットの目の前で戸棚の奥に仕舞われた。
いつの間にか、蝶はいなくなっていた。
それからしばらく、シャルロットもその小瓶の存在を忘れていた。
だが、ルーチェの正式に結婚が決まり、親族として伯爵家へ赴くことになった。ルーチェが伯爵家に嫁いでしまっては、姉妹とはいえ、なかなか会える機会がなくなるのだと言う。義父の口からそう聞かされると、悔しさで涙が出た。
これからは、伯爵夫人とお針子の関係になるのだと、突き付けられた気がした。
その翌日、シャルロットは気がつかないうちに、戸棚の奥の小瓶を自分の鞄に忍ばせていた。