不死身の俺を殺してくれ

「原さん、これ、お願いします。書類の不備確認と、指定された人数分のコピーを用意して、クリップでまとめておいてください」

「はい、分かりました」

 午後の業務が始まると、さくらは他の社員からの指示を受けて、渡された書類に目を通しながら、社内の壁掛け時計を一瞥する。

 時刻は午後四時半を過ぎていた。今日は久々に残業かもしれないと、胸裏で少し焦りを滲ませる。
 
 出来れば、今日の内に八重樫くんと話がしたかった。そうしないと、やっとの決心が再び鈍り、全てを有耶無耶《うやむや》に誤魔化してしまいそうになる。

 ダメだ。今は仕事に集中しないと。

 小さく頭《かぶり》を振り、改めて書類に目を通す。すると、誰かに声を掛けられた。

「どうしたんだ、眉間にすごいシワが寄ってるぞ」

「へ?」

 書類から視線を上げると、デスクを隔てた向こう側に苦笑を溢している上田課長が、さくらの様子を不思議そうに窺っていた。

 どうやら、上田課長にまで気付かれてしまう程、私の様子は酷くおかしかったらしい。というより、課長が珍しく真面目に仕事をしていることに驚いた。

「ね、優……課長、何かあったの」

 上田課長に適当に愛想笑いを返し、左隣にいる優に小声で問い掛ける。もしかしたらこれは、天変地異の前触れかもしれないと戦慄(わなな)いていると、優はさくらに苦笑を向けた。

「あー……えっとね、さくらが欠勤した日に、上田課長の奥さんが第二子を授かったみたいで、嬉しそうに朝礼で話してたんだけど……。それから、ずっとあんな感じなの。私たちにとってはありがたいんだけど、その意気込みが何時まで続くのかな~っていうのが、正直なところの本音なんだけどね」

 そんなことが有ったなんて、知らなかった。いや、私が気づいていなかっただけなのかもしれないけど。

「そうだったんだ……。無事に産まれるといいね」

「うん」

 ちょっとした事が切っ掛けで、人はこうも変わるものなのかと、さくらは熱心に業務に打ち込む上田課長を眺めながら、胸裏で密かに感心していた。

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