優しい彼と愛なき結婚
女性は構わずタクシーを呼び止め、先に乗り込んだ。一言も発さずに、ただその目は笑っている。
「今夜は先約があるんだ。ごめんね、明日でもいいかな?」
「…分かりました。でもひとつ教えてください」
「どうしたの、優里」
いつも通りの綾人さんは優しく聞いてくれた。
さらさらの髪は少しも乱れておらず、シワのないワイシャツを着込み、磨かれた靴も綾人さんらしい。
でもね、綾人さん。
ひとつの違和感を見逃すほど、私たちの関係は短くはないんだよ。
「腕時計、変えたのですか」
「ううん。前からだよ」
前から、か。
同じ腕時計が女性の腕にはめられていることは、どう説明してくれるのかな。
「送れなくてごめんね。気をつけて帰ってね」
私の返事を聞く前に女性の隣り、後部座席に乗り込んだ綾人さんに手を振る。
すぐさまドアが閉まったけれど、タクシーが見えなくなるまで振り続けた。
さよなら、綾人さん。