太陽に抱かれて

　ギャラリーを出ると近くの店で土産の焼き菓子と、平桃を買って、三十分かけてアトリエに戻った。

　客人の姿はもうすでになくなっていた。
　丘にはただ一人、カンヴァスに向き合う男の姿。ももが帰ってきたことにも一瞥もくれず、筆先に神経を集中させているようだった。


　ももはいつものように男のそばへ寄った。

　斜め後ろ、男の死角になるだろう位置にすとんと腰を下ろす。不思議と疲れていたのかもしれない、草が肌を擽る感覚すら気にもならなかった。ただひたすらに、大きな背を眺めた。

　ところどころ絵の具のついたカーゴパンツ、動きに合わせて揺れるフランネルのシャツ。
　そこから伸びる首すじは、画家のそれにしては、太く立派だ。
　いくら腕を動かしても、表情のかわらぬ精悍な横顔、そして、まっすぐなまなざし。

　ももは見つめながら、不意に喉が渇いて購入した平桃を食べることにした。

　ひと口かぶりつくと、じゅわっと果汁が口の中に広がった。
　適度な固さと酸味、それから香りの豊かさは疲れた体に染みる。日本の桃とはまたひと味違った美味しさだった。白い果肉が中心へ近付くにつれて赤く染まっている。それがなんとも食欲をそそって、またひと口、さらにまたひと口、とももはその円盤型の熟れた果実にかぶりついた。


「どうだった」

　食べ終わったところで、低い声が耳を撫でた。フランス語というのは、実に不思議な響きがある。掠れ声に近い円熟した男の声はひどく婀娜(あだ)っぽい。

　あの不思議な色を放つ虹彩はまっすぐ目の前のセーヌに注がれていた。

「とても、綺麗でした」

　ももは答えた。その瞳には、風景を目に刻む男の姿を映したまま。

「そうか」

　男もまた、手を止めることなく返した。


　西陽が強く照りつけていた。
　風に男のグレーの髪がそよぎ、その聡明な額や、精悍な頬が熱いまなざしがまばゆい光を集めている。

　大きな体が、逞しい腕が、まったりと金色に染まり、繊細な指先はまるでその筆の軌跡を一本一本愛するようにカンヴァスをなぞっていく。


　——ああ、これに優る美しさがどころにあろう。


　ももははっきりと思った。

　どんな絵画よりも、どんな風景よりも、今この瞬間が芸術そのものだと。
　全身が叫んでいた。

　呼吸が止まり、激しく鼓動が打つ。
　この心の揺さぶりがなんなのか、彼女は知らない。


　彼の影を浴びながら、指についた甘い果汁を女は紅い舌で舐めとった。