太陽に抱かれて

「次は、朝早くに行くといい」

 ジュッとライターの音を立てて、シモンは煙草に火をつけた。

「朝?」
「ああ」

 細い棒を咥え、瞳を伏せたまま、それを吸う。やがて、唇から指先にとると、ゆっくり紫煙を吐きだした。

「開館してすぐなら、人は少ない。それに、朝の洗われた光の中で見るあの絵は格別だ」

 色鮮やかな大きいカンヴァスに、天井から天然の光が注ぐ。それも、朝日。強すぎることも、弱すぎることもない、爽やかな日差しが降り注ぐ様は、きっと素晴らしいに違いない。

 なるほど、そうしてモネの絵は完成するというわけか。
 大睡蓮画を飾る手法を事細かに指示したのは、画家自身だった。カンヴァスの上のみならず、それを飾る部屋、そして、自然までもを含めて『睡蓮』というテーマを完成させようと、画家は試みたのだ。クロード・モネというが、単なる画家ではなく、真髄の芸術家(アーティスト)であったと納得せざるを得ない。

 言ったきり、背を向けてしまったシモンに、ももは、きっと素晴らしいんでしょうね、と口にするが、その声はくぐもっていた。


 雨粒がぶつかっては小さな飛沫を散らし、つ、と下へ滴っていく。窓の向こうは霞み、いつものジヴェルニーとは別世界のようだった。

 しばらくシモンは窓辺に佇み、外を眺めていた。
 指先に巻きたばこを挟み、それを口に運んだり、離したりを繰り返す。

 男の背は、城壁だった。何人たりとも寄せ付けず、大きくて、硬い、石造りの壁。だが、ももは、不思議とそこへ頬を寄せてみたくもなった。
 その肌に触れる温度を、感触を、音を、感じてみたいという気持ちが沸き起こっていた。

「ほんとうは……無性に、ここに来たくなったんです」

 ももがタオルをそばにあった椅子の背もたれに掛ける。シモンは灰を落としながら、なぜ? と低く訊き返した。
 わからない、小さくつぶやいたももに、シモンは振り返りざま呆れの視線を投げると、立てられたままのイーゼルのもとへ向かった。

「でも」ももは続けた。

「ルーヴルでモナリザを見たときも、ドラクロワの女神を見たときも、睡蓮を見たときも、不思議とあなたの絵が見たいと思った」

 どんな作品を見ても、あれほどの心の揺さぶりを感じたことがない。
 焦燥を、空白を、そして、絶望を、あらゆるものを消し去ってくれる昂りも、ルネッサンスの傑作や、近代芸術の大いなる歩みを目の前にしても、訪れることはなかった。

「見たくて、たまらなかったんです」

 低く、静かで、まるで罪を告白するときのような不思議な響きに、太陽の不在がより一層濃いものになる。
 屋根や壁に打ち付ける雨が激しさを増す。だが、アトリエの中は静謐な世界を崩すことはない。

「モネのほうが、何倍も価値がある」とやがて画家は狼狽えることもなく言った。
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