探偵さんの、宝物
 尾行の距離は環境によって変えると教えられた。
 今回のような人混みでは対象者を見失わないよう、すぐ近くにつく。

 対象者の男性は歩くのが速く、すれ違う人も多くて私はついて行くのがやっとだった。
 このままじゃ置いて行かれる、と焦り、靴の先が地面に擦って転びそうになる。
 ――今派手に転んだりしたら対象者に注目されてしまうかも知れないのに!

「大丈夫?」
 前に傾いた体を、楓堂さんが抱きとめて助けてくれた。
 しっかりとした腕が、前から肩を支えている。今はこんなにも力があるんだな、と実感した。
「あ、ありがとう」
「うん」

 体勢を直して急いで歩き出そうとすると、楓堂さんが私の右手を握った。
 驚いて彼の方を見る。

「こうすれば、はぐれない」
「そ……」
 そんなことを言われて微笑まれたら、何も言えない。
 確かにはぐれないし恋人のフリもできる。合理的、だけど。

 ……大きな手だ。厚みのある堅い手の甲だ。
 なんでこんなに温かくて、安心するんだろう。

 楓堂さんに手を引かれるまま、尾行を続ける。人にぶつかりそうになると引き寄せてくれる。

 おそるおそる、自分も手を握り返すと、楓堂さんがちらりとこちらを見た。
 彼はすぐ前にいる対象者の足元を見ているので、それは一瞬のことだった。

 返事のように、一度きゅっと力を込められる。

 彼の親指が、冷えた私の手の甲をなぞった。
 それが優しくて、とても優しくて。……勘違いだと思うけど、まるで。
 愛情を込められているみたいに感じた。

 一時しのぎの恋人の振りなら、誰にも見えない部分まで演技する必要があるのだろうか。
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