かりそめ婚ですが、一夜を共にしたら旦那様の愛妻欲が止まりません
「はい」

ゾクッとするような冷たい低い声で石野さんが言うと、一寸も眉を動かさず鉄壁のような男性秘書がアクセルを踏んだ。

「ちっ、今の見られたか?」

「……おそらく。しかし、行き先まではわからないかと」

「ふん」

石野さんは不機嫌そうに鼻をならし、ふぅ、と深く息づいてから両腕を広げ、足を組んだ。

今のって……やっぱり気のせいじゃなかったの?

今までの柔らかな態度とは違い過ぎる。言葉使いも雑だ。そして石野さんはポケットから煙草を取り出すと、慣れた手つきで火を点ける。

「あ、ごめん、もしかして煙草苦手? 匂いついちゃうよね?」

そう思うなら最初に断ってから吸えばいいのに、目の前にいる石野さんはまるで別人だ。もしかしたら、こちらが本当の“石野裕”の顔なのではないかと思えてならなかった。バーで初めて会ったときに煙草を吸わなかったのは、印象を悪くしないためだったという計算が窺えて背筋がスッと冷えた。

「あの、さっき誰かに名前を呼ばれた気がしたんですけど……」

「え? 誰に? うーん、君の名前を呼んだ人なんか見なかったけどなぁ」

嘘。だって、舌打ちして「今の見られたか?」って秘書に聞いてたじゃない。

ここで騒ぎ立てても仕方がない。
とぼける石野さんにこれ以上話しかけるのはやめて、私はどこへ行くともわからない車の中、じっと息を潜めて流れる夜景を無心で見つめた。
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