愛され秘書の結婚事情*AFTER
    *****

 午後九時半。

 七緒が帰宅した時、悠臣は入浴中だった。

 七緒は服を着替え、リビングのソファに座って、彼が浴室から出て来るのを待っていた。

 下着とバスローブのみの格好で風呂から上がった悠臣は、リビングにいる彼女を見て、真顔で足を止めた。

「……おかえり」

「ただいま帰りました」

 いつもの口調で挨拶し、七緒は悠臣に頭を下げた。

 その顔が緊張でこわばっていることに気付き、悠臣は自分も緊張したまま、彼女の向かいに腰を下ろした。

 濡れた髪をタオルで拭いながら、「食事会は楽しかった?」と尋ねる。

「はい。皆さん、とても良い方で。お陰様で、楽しい時間を過ごせました」

「……そう」

 つい不機嫌な口調になり、悠臣はそのままむっつりと黙り込んだ。

 自然と脳裏には、複数の男性社員にちやほやされている七緒の姿が浮かび、これからもこんな光景が繰り返されるのかと、苛立ちが抑えきれない。

「……悠臣さん」

 七緒は改まった口調で、婚約者の名を呼んだ。

「私の最後のワガママを、聞いていただけるでしょうか」

「え……」

(最後……?)

 ドクン、と悠臣の心臓が鳴った。

「最初のワガママは、会社で二人の婚約を秘密にする、というものでした」

 真剣な眼差しで、七緒は言った。

「悠臣さんは、そのワガママを聞き入れて下さいました。感謝しています」

 ドクッ。

 ドクッ。

 大きく鼓動を始めた心臓は、彼の制御を離れ、どんどんその脈を速めていく。

 耳の奥で響くほど大きく、自分の心臓が鳴る音を聞きながら、悠臣は七緒の次の言葉を待った。

 待ちながら、心の中で「言わないでくれ」と叫んでいた。

 絶対にこれは別れ話だと、そう思った。

 そんな男の動揺には気付かず、七緒は「でも……」と目を伏せ、彼に向けていた視線を逸した。

「あれから色々あって……。つい先日も、あなたを不快にさせることをして……。私、正直ずっと、迷っていました」

 視線をテーブルの表面に落とし、七緒は淡々と話した。

「十倉先生にも、ご相談に乗っていただいて。こういう時はどうすべきなのか、ご助言をいただいたんです。先生は、自分の心に正直に、誠実に動くべきだとアドバイスを下さって……。それで私……」

「ちょ、ちょっと待って!」

「え?」

 急に彼女の台詞を止めて、悠臣は勢いよく立ち上がると、キッチンシンクに走った。

 そこで適当なグラスを手に取り水道水を注ぐと、ゴクゴクと喉を鳴らして、それを一息に飲み干した。

「そんなに喉が渇いていらしたなら、仰って下さればいいのに……」

 びっくりして呟く七緒を座った目で見返し、悠臣は濡れた口元を乱暴に拭うと、再び元の位置に戻った。

「……失礼した。……どうぞ」

「あ、はい」

 自分もソファに座り直し、七緒は一瞬、「どこまで話したっけ?」と首を傾げた。

 その顔もとぼけたような仕草も可愛らしく、この愛らしい人をもう抱きしめることも出来ないのかと、悠臣は泣きたい気持ちになった。
< 19 / 38 >

この作品をシェア

pagetop