となりに座らないで!~優しいバレンタイン~
「さあ、行くぞ!」

 広瀬社長は、コーヒーを飲み干すと席を立った。


「お疲れ様です」

 慌てて頭を下げた。


「はあ?」

 社長は、怪訝な顔で私を見下ろしていた。

「え?」

 私は、何が間違っていたのか分からず首をかしげた。


「あんあたが言ったんだぞ」

「な、何をでしょうか?」


「今度は生ビール飲みに行こうって言っただろ?」

「へぇ?」

 夕べの事が蘇る。確かに言った。


「えっ…… でも、今日だとは……」


「何か用事でもあるのか?」

 社長の目が、ちょっとだけ不安そうに見えた。

 用事は無いが、用事を作りたいと思っていたのは事実だ。


「いいえ」
 
 咄嗟に答えていた。


「じゃあ、行くぞ」

「あの…… お忙しいんじゃ」

 遠慮がちに聞いてみる。


「ああ…… クソ忙しい……  だが、俺だってたまには、定時に帰りたいときもある」

「そ、そうですか……」


 とりあえず、席を立ったほうが良さそうだ。

 社長が、私の腕を掴んで歩きだした。


「あの……」


「また、逃げると面倒だからな」

 社長がチラリと私の方を睨むように見た。

 ひえ~。 逃げる事は無理そうだ……


 でも、私を引っ張ってあるく社長の手は、決して強引なものでなく、暖かくて男らしい強さだった。
 ふと振り向いた社長が、私の目を見て言った。



「さっきの、スマホの男。俺がなんとかするから、もう忘れろ!」


 私の腕を掴む社長の手が、少し強くなった。

 社長の言葉と、腕から伝わる手のぬくもりに、自分が安心していくのが分かった。


 
< 40 / 125 >

この作品をシェア

pagetop