となりに座らないで!~優しいバレンタイン~
 身支度を整え、リビングへ向かう。

 『今朝はもう起きているから心配ない』

 広瀬さんの声だ。誰かと電話しているらしい。こんな朝早くから誰だろうか? 起きている報告なんて、よほど親しい間柄の気がする。
 あれ? 胸がチクンと痛い。 


 スラックスに履き替え、ワイシャツのボタンを締めながらバスルームへと向う広瀬さんとすれ違う。その、さりげない仕草も、正直言ってカッコいい。


 朝食の用意でもとキッチンに入るが、コーヒーメーカー以外何もない……


 バスルームから戻った広瀬さんの手には、クリーニングの袋がぶら下がっている。ワイシャツならともかく、部屋着のジャージまでがチラリと袋の隙間から見えた。



「あの…… 全部クリーニングに出すんですか?」


「ああ、俺は一切家事はやらん」


「じゃあ、部屋の掃除は?」

「ハウスキーパーがやっている」



「食事は?」

「コーヒーは入れる。朝食は時間があれば、下のラウンジで済ませる。夕食は外食がほとんどだ。家で食べた事はあったかな?」


 ほぉーー。

 あまりに非現実的な世界に、ため息しかもれない。


「時間もあるし、ラウンジで朝食済ませるか?」


「い、いいえ私は…… 途中のファストフードで済ませるので……」

「そおか? じゃあ俺も行く」


「ヒェー それは…… 朝から一緒じゃ、誰かに見られたら……」

「何でだよ? 嫌なのかよ?」

 広瀬さんが、じろっと私を睨む。


「そうじゃないですけど、ご迷惑おかけするわけにはいないです!」


「あほか! 迷惑ならはじめからここへは連れてこない。さあ、行くぞ!」

 広瀬さんの手が伸びてきて頬に触れたかと思うと、チュッと軽くキスをされた。


 ええー!!
 固まっている私の手を引いて、広瀬さんは玄関の扉を開けた。


 エレベーターを降りると、昨夜のコンシュルジュが笑顔で頭を下げた。
 「おはようございます。いってらっしゃいませ」

 私は、自分でもわかる真っ赤な顔で、「おはようございます」と、小さく返した。


 「この、ラウンジはマンションの住民なら、いつでも自由に使えるからな。」

 「はあ…… お高いんでしょうね」

 高級そうなラウンジに目をやたると、ぼそっと漏れてしまった。


「ああ…… 朝食は家賃込みだ。だが、たいしたものはないがな……」

 エントランスへ向かう広瀬さんの手を引き戻した。


「ラウンジで食べましょう!」

 家賃込みなのに食べないなって、もったいない!


「なんだよ……」
 
 あきれたように見ている広瀬さんの手を引っ張ってラウンジに入った。
 受付で、コンシュルジュがニコリとほほ笑んだ事に気づかずに……


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