溺愛の価値、初恋の値段
目の前の音無さんは、じっとわたしを見つめていた。
「もしかしたら、少しは感じているのかもしれないけれど……ほとんど味がわからないんじゃないかな? 実は、その緑茶に砂糖を五杯も入れたんだよね」
手にした湯呑みを見下ろし、まったくわからなかったことを痛感する。
「…………」
あんなに一生懸命朝ごはんを作ってくれた音無さんに、申し訳なくて顔を上げられなかった。
騙すつもりはなかったけれど、味わっているフリをしていたようなものだ。
気まずい沈黙を破ったのは、音無さんのひと言だった。
「……というのは、嘘なんだけど」
「え?」
「ごめんね? 試すようなことをして。でも、どんな情報も、できるだけ自分の目で確かめることにしているから……」
「誰、に……?」
わたしの味覚障害のことは、家族同然の京子ママと征二さん、羽柴先生と雅しかしらないはずだ。
でも、その誰とも、まだ音無さんは会ったことがないはずだった。
「飛鷹くんが、教えてくれたんだよ」
「…………」
思いがけない人の名に、手が震えて危うくお茶をこぼしそうになる。
「二人でお店に来てくれた翌日、僕に電話をくれたんだ。彼自身、確証があるわけじゃないとは、言っていたけれどね」
「あ、の……わたしっ……ごめ……」
「謝らないで。大丈夫だよ。味がわからなくとも、食べることを楽しんでくれていたのは、わかってるから」
知られたくなかったはずなのに、妙にほっとしている自分がいた。
音無さんは、涙ぐむわたしに優しく笑いかけてくれた。
「僕はね、味というのは絶対的なものではないと思うんだ。気候が違えば、素材の味も変わる。生活習慣が違えば、食文化も異なる。何を美味しいと思い、何を美味しくないと思うかは、どこに住み、何を食べてきたかによっても変わる。環境だけでなく、年齢でも変わる。子どもの頃に好きだった味が、大人になっても好きだとは限らない。子どもの頃は嫌いだった味が、大人になって好きになることもある。たとえばお酒とかね。それに……その時の気分によっても変わる。だから、昔のように味わえなくても、いつものような味がしなくても、ぜんぜんおかしなことじゃない。いまの海音さんが感じていることを大事にすればいい」
病院の先生や、京子ママ、征二さん、雅や羽柴先生。わたしのことを心配してくれる人たちに、同じようなことを言われていたのだと思う。
でも、音無さんに言われて、初めてストンと胸に落ちた。
「本当は、傷口に塩を塗るような真似はしたくなかったんだけど、一つ隠し事があると他のことも言えなくなる。全部知られていたほうが、楽に話せるんじゃないかと思ってね」
そのとおりだった。
一つ、隠し事をしたら、それにまつわる全部を隠さなくてはいけなくなる。
言えないことがどんどん増えて、どこから打ち明ければいいのかわからなくなる。
「それで……海音さん。昨夜、飛鷹くんと何があったの?」