君のキスが狂わせるから
2.恋の蕾
(ヨガのインスタラクター。新しい人生……か)

 冷めてしまったカレーを見下ろし、私は小さくため息をついた。

***

「あの、愛原さん」

 終業間際、そう声をかけてきたのは、半年前に中途で入ってきた三上さんだ。
 身長も高くスラリとしていて、見目麗しいとはこういう人だろう。
 29歳という絶妙な年齢も、既婚で子持ちという部分も全て彼女を輝かしいものにしている。

「なんでしょうか」
「すみませんが、このお仕事急ぎなんですけど……私、今日はどうしても残業できなくて」

 見せられた書類は確かに明日必要なもので、急ぎなのはわかった。
 ただ、直しの部分はそれほど多くなく、30分ほどあればできそうな感じだ。

「ええと、30分くらい残るのも難しい?」
「あ、はい。保育園の延長が今日できなくて……定時で出ないといけないんです」
「そ…っか」

(なら仕方ないか。こういうところは独身の私がフォローしないとね)

 私はその資料を受け取り、三上さんに笑顔を向けた。

「じゃあ私がやっとくから、帰っていいよ」
「ありがとうございます!」

 残業するのは別に構わない。
 帰宅しても特に家族がいるでもない私にとって、仕事はある意味自分の存在意義を感じられるとても大切なものだ。

 ただ最近分からないのだ。

 私はアラフォーらしい表情を作ったり態度をとれているだろうかと。
 心はまだ20代のまま止まっている部分も多い。
 だから必要以上に意識してしまう。30代後半の未婚女性であるということを。

(ちょっと息抜きにコーヒーでも買ってくるかな)

 席を離れて、休憩室にある自動販売機でコーヒーを買っていると、後ろでぼそりと低い声が聞こえた。

「三上さん、さっき廊下で保育園の延長普通に頼んでましたよ」
「えっ」

 驚いて振り返ると、いつの間に来ていたのか企画室の深瀬くんが私のすぐ後ろに立っていた。
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